ゆいしき

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唯識

(S) vijñapti-mātratā विज्ञप्तिमात्रता

 大乗仏教の学説の一つで、一切の存在はただ自己の識心より作り出された仮のもので、識のほかには事物的存在はないと説く。単に「唯識」と言った場合、唯識宗・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。

 大乗の教えによれば、われわれの経験世界はただ識別(vijñapti)のみにすぎない。
 なぜかというと、経典(=華厳経)にも、「勝者の子(=仏弟子)たちよ。この経験世界は、ただ心(citta)のみにすぎない」と説かれているからである。
 心(citta)・意(manas)・識知(vijñāna)・識別(vijñapti)は同義語である。
 この場合、「心」というのは、心に付随する(さまざまな心理作用)をふくめて考慮する。「ただ‥‥のみ」というのは、外界の存在を否定するという意味である。
 第一頌 この世界はただ識別にすぎない。実在しないものを対象として顕現(ābhāsa)しているからである。たとえば眼病をわずらう者には、実在しない毛髪とか、(二重の)月などが見えるのと同じことである。
 この識知そのものが対象として顕現されるのである。対象はまったく存在しない。    〔唯識二十論〕

 「唯識」(vijñapti-mātra)とは、「ただ表象のみ」ということを意味する。
 vijñapti(ヴィジュニャプティ)とは、識によって現わされた表象のことである。単純化して言えば、「識」とは心と同じ意味であるから、「唯識」とは唯だ心のみ、心によって現しだされた表象のみという唯心論的な意味を持つ。それは瑜伽行派と呼ばれる、ヨーガの実践を重んじる修行者たちの体験の中から組織立てられた思想である。
 「識」の表象は、「相」(見られるもの)と「見」(見るもの)の双方を合わせもつものである。つまり、「心が心そのものを見る」ということを意味する。
 ただ、それは「わたし」という主体(あるいは「わたしの」心)がまずあって、「わたし」が何かを知覚・認識するというのではなく、より根源的に、「ただ何かが知らしめられている(見せられている)」という直接的な事態が前提としてある。そこから、見ているのが「わたし」であって、見られているものが「何か」であるという反省が起こるのであり、それが分別(vikalpa)という識の働きに他ならない。「わたし」とか外界にあるような「何か」というのは、識の働きによって仮設(upacāra)された表象にすぎず、外界に存在するものではない。
 唯識思想は、そうした識(の働き)のみを縁起した存在として認め、外界に存在しているかのように見える世界も、実は識が変化(転変)して現れた表象にすぎないとする。そうであるにもかかわらず、心の外に実在するかのように識は分別するのである。そのため、識は虚妄分別(abhūta-parikalpa)とも呼ばれる。 般若経中観派が説くように、全ての存在が空であるならば、一体何がそのように認識するというのか。全てが空であると認識する心(認識作用)こそは、存在しなければならず、唯一存在するものである。そこで、般若経の「一切は空である」という教えを未了義の教えに落としめて、自らの教えを了義経と宣言したのである。つまり、「一切が空」ではないのである。
 しかし、唯識思想は空思想と対立するものではなく、むしろ空思想の直系であり、新たな論理(三無性説)で空の思想を説いたものである。つまり、識は仮有であり、実体としてあるのではない。識の存在を(仮に)認めることは、分別する迷いの存在から、悟り(真如)に向かう修行の階梯を重視するといった実践的な理由による。それは修行者にとっての、修行の拠り所という意味合いである。三阿僧祇劫という天文学的な時間かけて修行した結果、識は智に転換すると言われる。
 唯識思想は、存在論としては三性説、認識論としては八識説(六種の顕在的認識作用と自我意識、輪廻の主体となるアーラヤ識(ālaya vijñāna)、実践論としては入無相方便が、その根本思想である。

 華厳経では、集起の義について唯心という。唯識論では、了別の義について唯識という。その体は一つである。詳しく弁別すると、「唯心」の語は因果に通じるが、「唯識」と称するときには、ただ因位にある。
 「唯」とは簡別の意味で、識以外に法がないことを簡別して「唯」という。「識」とは了別の意味である。了別の心に略して3種、広義には8種ある。これをまとめて「識」といっている。
 この3種とは、初能変(第八識)、二能変(第七識)、三能変(前五識)のことである。また、8種とは「眼耳鼻舌身の前五識」「第六意識」「第七末那識」「第八阿頼耶識」である。

識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、経に唯心という。分別了達の根本であるから論に唯識という。あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。識は了別の義であり、因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定しているのである。意味的には二つのものではない。『二十論』には、心と意と識と了名とはこれ差別なり、と説く。  〔義林章 一末〕

識と諸法

 「唯識」といって、唯八識のみであるというのは、一切の存在現象がこの八識を離れないということである。八識のほかに存在がないということではない。おおよそ分別して五法としている。①心、②心所、③色、④不相応、⑤無為である。この前の四つを「事」として、最後を「理」として、五法事理という。

  1. 心‥‥‥識の自相
  2. 心所‥‥識の相応法
  3. 色‥‥‥心と心所の所変
  4. 不相応‥心と心所と色の分位の差別
  5. 無為‥‥前四法の実性

 「唯」の語は遍計所執性を遮遣して、「識」の語は依他起性圓成実性の二性をとる。

梵に毘若底(vijñapti)と言うのは、これを翻訳すると識となる。識とは了別の義である。識の自相と、識の相応と、識の所変と、識の分位と、識の実性と五法の事理はみな識を離れず。これによって唯識と名づける。  〔義林章一末〕
(弥勒菩薩が言う)「我、十方唯識を諦観するをもって、識心圓明なり。円成実に入りて、依他起および遍計執を遠離して、無生忍を得る。これ第一と為す。」  〔楞厳経 五〕

成立と発展

 唯識は弥勒によって唱導され、無着世親の兄弟によって組織体系化された。とりわけ世親が唯識三十頌 を著して、教義が体系化された。その後、この書をめぐって、多くの論師たちによって論議がたたかわされた。それら多くの諸説のうち護法の解釈を正統とする立場で玄奘成唯識論 を漢訳して、中国において法相宗が成立した。法相宗は奈良時代に日本に伝えられ、以後現代にいたるまで、唯識は単に法相宗の教義としてだけでなく、広く仏教の基礎学として学ばれた。

特色

  1. 心の種類として、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識阿頼耶識の八識を立てる。
  2. 三性説を新たに打ち出したこと。全存在を心のなかに還元し、しかもその全存在のあり方を、遍計所執性(分別された非存在)と依他起性(因と縁という他なるものに依って生起した仮の存在)と円成実性(完成された真に存在するもの)の3種類に分類した。
  3. ヨーガを実践することによって唯識観という具体的な観法を教理的に組織体系化したこと。

 般若経を受けつぎながら、まず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする教えである。この学派を唯識瑜伽行派あるいは瑜伽行派とよぶ。vijñaptiとは「知らしめる」という意味。唯識とは語義的には、自己と自己を取り巻く自然界との全存在は自己の根底の心である阿頼耶識が知らしめたもの、変現したもの、という意味である。唯識説によれば、ただ心のみがあり、外界には事物的存在はないとみる。
 これは西洋思想でいう唯心論ではない。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在であり、究極的にはその存在性も否定されるからである。