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たんじょうげ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

誕生偈

 釈尊の誕生についての伝説の中に説かれる四方七歩の宣言を誕生偈とよんでいる。いわゆる「天上天下唯我独尊」といわれるものである。

 この「天上天下唯我独尊」の偈句中で「唯我独尊」という言葉は、受けとり方によっては全く奇妙な印象を人々にあたえる。というのは、もし釈尊が誕生にあたって、この世界で自分だけがひとり尊いといわれたとすれば、それは釈尊の単なるひとり自慢のように考えられるからである。すなわち、これだけでは、なぜ「独尊」であるかが明らかになっていないからである。その点、「天上天下唯我独尊」だけでは十分ではない。そこで、この偈句の源を尋ねて、この句の本当の意味を明らかにすることは、仏教の精神を明らかにするために大切なことである。

大唐西域記

 この偈句の源を尋ねると、まずこの偈句の出典が玄奘の『西域記』六であることが明らかになる。というのは「唯我独尊」という言い方は、他の漢訳の仏伝諸書にはみられないからである。
 『西域記』をみれば、そこでは誕生偈が「天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽」といわれている。したがって、世間一般にいわれる「天上天下唯我独尊」は『西域記』六の誕生偈の前半であることがわかる。もし、そうだとすれば「唯我独尊」の独尊はこの偈句の中の「往生分已尽」によるといわねばならない。すなわち、

一切の世界の中で、自分は一番尊いものである。それはいまここに生まれてきたが、これが迷の世界での最後の生であり、再び迷界に流転しないからである

ということである。その意味で、いまの独尊は往生分已尽で説明されているわけである。
 しかし、このような「往生分已尽」ということで 「唯我独尊」と尊さを説明するという仕方は、他の漢訳仏伝諸書にあまり例をみないことを注意すべきである。

修行本起経

 漢訳仏伝の代表的なものの一つである『修行本起経』上には誕生偈が「天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之」とある。この場合「唯我為尊」の理由は「三界皆苦吾当安之」である。すなわち、

欲色無色の三界、いわば一切の迷界にある衆生は、みな苦に悩んでいる。そこで自分はこの苦の衆生を安んぜんために誕生したのである

ということから、尊いというのである。
 この説き方は明らかに前の『西域記』の説き方と異なっている。いわば『西域記』では、現在この世に生まれたのは仏になり、さとりを開くためであり、それに間違いないから尊いというのであるが、この『修行本起経』では人々の苦を救うという使命感が誕生した釈尊の尊さであるというのである。これらは、明らかに仏伝作者たちの釈尊観の相異を示している。

 ところで、漢訳諸書には、この『修行本起経』のような説き方が普通である。すなわち『長阿含経』の中の『大本経』には「天上天下唯我為尊 要度衆生生老病死」とあり、大乗の仏伝とも考えられる『普曜経』巻二には「我当救度天上天下為天人尊 断生死苦三界無上使一切衆生無為常安」といっている。これらはみな、釈尊を人々を救う仏陀として、仏の利他のはたらきを中心としてみているものであり、仏伝作者自身が自己のさとりを課題としながら釈尊をみているといってよいであろう。
 ところが『西域記』の説き方でみれば、これは釈尊の尊さを釈尊自身の解脱という点でとらえているといってよいであろう。このような『西域記』の釈尊のとらえ方は、漢訳『長阿含経』の中の『大本経』と相応するパーリの(Mahāpadana suttanta)や『仏本行集経』巻一などにみられる。すなわちパーリ文によれば

われは世界中で第一人者である。われは世界中で最年長者である。われは世界中で最優秀者である。これは、わが最後の生であり、いまや再び有 (迷界の生)に入ることはない
〈aggo'ham asmi lokassa, jeṭṭko'ham asmi lokassa, seṭṭho'ham asmi lokassa, ayam antimaa jaati, n'atthi' daani punabhavo.〉

という。

 また『仏本行集経』巻一では

我れ世間において最も殊勝たり、如来仏道を成じ得おわる。一切の世間、諸天及び人、ことごとく皆尊重し恭敬して承事す。……我れ生死を断ず、是れは最後なり、如来仏道を成じえおわる

などという。これらは明らかに『西域記』と同じ意図を示している。

 このように釈尊の見方に仏伝がいろいろとちがった記述をもっていることは注意を要することであると同時に興味あることである。すなわち、『西域記』のような悟りを開いた現実の釈尊の尊さを、悟りを開いた後、常に釈尊自身が話された言葉と思われる「わが生はつきたり、再びこの世に生をうけることなし」の言葉を誕生にまでもちきたって示そうとするものと、『修行本起経』のように仏陀の誕生を衆生救済のためと考え、そこに釈尊の尊さをみようとするものとの間に、さらにその変遷の過程を示すものに『過去現在因果経』を位置せしめることができるごときである。

過去現在因果経

 いま『過去現在因果経』をみれば、そこには

われ一切の天人の中において、最も尊く、最も勝れたり、無量の生死はいまにおいてつきたり、この生において一切の人天を利益せん

とある。この前の部分はパーリ文や『西域記』の意図を示し、後の一句は利他の立場を示している。このように仏伝を通して仏伝作者たちが抱いていた釈尊への信仰がどのようなものであったかをみることができることは興味あることである。

 ところで、釈尊の尊さをいずれの立場からみるとしても、ここに「天上天下唯我為尊」とあることについて、これを仏教の思想と立場という点からみる時、この語には興味ある理解と解釈がなされうる余地があることに気がつく。いま、しばらく、このような点について考えてみよう。

 まず、はじめに「天上天下唯我為尊」について二つの見方ができるであろう。一つは内面的に釈尊の自覚そのものとして考えること、二つには外面的にこれを外に対望せしめてみる場合とである。すなわち、この中、はじめの内面的とは、釈尊自身、があらゆる悩みの中から、これを克服しえたよろこびを述べられたことである。自分自身を本当にこの世界随一の世尊(栄光に輝けるもの、幸福者)となりえたことを「為尊」といわれたとみるのである。いわば天の上、天の下、いずれを通じてみても、人間は末成の仏であり、仏陀は已成の人である。そこで末完成の人間に対して、釈尊は完成した人間として完全位にある仏陀であるから、「唯我為尊」なのである。
 次に外面的に外に対して、この天上、天下を考える場合、まず、ここで天上と大子が指さしているものは梵天であり、天下と指さしておられるものは物質にばかり目をむけ、肉体的なものにのみこだわり、精神的なものを単に文化の上部構造として無視しようとする唯物思想家である。そこで、この場合「唯我為尊」とは、これらいずれにもかたよることのない釈尊自身の正しい立場を示したものと考えるのである。すなわち、仏陀釈尊の縁起の自覚、それこそが唯我為尊の立場である。

 この釈尊の立場に対して、世界のいっさいのできごとを、すべて神の意志によるとする当時の尊祐論〈そんゆうろん〉の立場こそ天上である。また、いっさいを偶然の支配するところと考え、因果を無視して、極端な現実主義に立つ偶然生論や無因無縁論のごときは天下である。これらの極端論を克服して、真実の現実こそ、縁起であると自覚して、真面目に生かされて生きていることの自覚の下に生きる姿、それこそ「為尊」であり「独尊」である。
 このように「誕生偈」の中に、われわれは仏教の根本的立場をしるとともに、釈尊観を通して、そこに仏教徒の信仰の変遷の模様をみるのである。