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えいへいじ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

永平寺

 福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山。開山は道元
 道元は1227年(安貞1)宋から帰朝し、33年(天福1)山城国(京都府)宇治深草に興聖寺(こうしょうじ)を開いて10年ほど住んだが、43年(寛元1)興聖寺を去って、檀越(だんおつ)波多野義重(よししげ)の領地である越前(福井県)に赴いた。
 入越後しばらく吉峰寺(よしみねでら)、禅師峰(やましぶ)の古寺に仮寓(かぐう)したが、翌年、伽藍(がらん)の完工とともに永平寺に移った。初めは寺名を大仏寺と称したが、1246年吉祥山(きちじょうざん)永平寺と改めた。

 永平寺の寺名は、後漢・明帝の永平10年(西暦67)に仏教が初めて中国に伝えられたように、正しい日本仏教はこの寺より始まるという道元の抱負に基づき、その年号にちなんで命名された。

大仏寺は現在の永平寺の位置から6キロメートル山奥に、その旧跡と伝えられている所があって、いつの時代か現在地に建てられたという伝承がある。しかし、初めから現在地に建てられたという移転否定説が有力である。

 道元の後を継いで永平寺第2世となったのは弟子孤雲懐奘であるが、懐奘の弟子徹通義介(てっつうぎかい)が入宋(にっそう)し、彼の地の禅刹(ぜんせつ)伽藍を見聞して帰朝してのち、山門を建て、回廊をつくって伽藍を整備した。
 1297年(永仁5)火災にあったが、越前宝慶寺(ほうきょうじ)より義雲(ぎうん)(第5世)が転住して復興した。このため義雲は中興と称される。
 1372年(文中1・応安5)後円融天皇の勅詔によって永平寺は日本曹洞第一道場の勅額を授けられたが、1473年(文明5)の兵火により諸堂ならびに勅書を焼くに至り、1539年(天文8)朝廷からふたたび日本曹洞出世道場の追認が与えられた。
 1615年(元和1)には徳川秀忠によって法度が永平寺に下され、能登(石川県)の総持寺(現在は神奈川県横浜市)と並んで曹洞宗大本山としての地位が確認された。

 江戸時代には黄檗(おうばく)宗の伝来によって叢林(そうりん)の規矩(きく)が乱れたが、1795年(寛政7)玄透(げんとう)(第50世)が入院し、道元の清規(しんぎ)の復古と伽藍の再興に尽くした。永平寺は道元以来、宋の太白山天童景徳禅寺(たいはくざんてんどうけいとくぜんじ)に模したものであるが、現在に至るまでよく宋元禅林の古規を伝えているのは、主として玄透の功績による。これがために玄透は重興と称される。

伽藍

 現在の伽藍は、山門仏殿法堂が一直線上に並び、仏殿の東には大庫院(だいくいん)(台所)、西には僧堂が相対し、山門の東回廊の端に浴室、西回廊に東司(便所)が配されて、いわゆる七堂伽藍が整然と配置されている。そのほか、承陽殿(じょうようでん)(道元廟(びょう))、衆寮(しゅりょう)、聖宝館(宝物館)、玲瓏(れいろう)閣、傘松(さんしょう)閣、祠堂(しどう)殿、瑞雲(ずいうん)閣、大光明蔵、不老閣、妙高台などの大建築が回廊で結ばれ、さらに近年吉祥閣が竣功(しゅんこう)して近代的設備を備えて、山中に一偉観を呈している。伽藍の大部分は近代の建築であるが、山門は1749年(寛延2)の建造で、後円融天皇の勅額「日本曹洞第一道場」(国の重要文化財)が掲げられている。
 寺宝には、道元自筆の『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻(国宝)をはじめ、『普勧坐禅儀撰述(せんじゅつ)由来記』1幅(国宝)、道元所持の『嗣書(ししょ)』1幅や懐奘筆写の『正法眼蔵仏性(しょうぼうげんぞうぶっしょう)』1冊(いずれも国の重要文化財)などがある。

山門
http://c2i.msn.co.jp/travel/images/domesticguide/18000392_1759_1.jpg

全景
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