えうん
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慧運
延暦17(798)-貞観11(869)。真言宗の僧侶。安祥寺の僧都と呼ばれる、入唐八家の1人。京都生まれ、安曇氏。
東大寺で出家し、東寺の実慧から灌頂を受ける。承和九年(842)、唐に渡り、長安・青竜寺の義真から真言の密印を受け、同14年、真言の経軌200余巻を持って帰朝。
嘉承元年(848)、仁明天皇の女御、藤原順子の発願で山科に安祥寺を建立した。
貞観6年、小僧都。同11年、東大寺別当。
著書
- 菩提心戒儀 一巻
ほか
慧雲
臨済宗の僧
安貞元(1227) - 正安3(1301)。字は山叟、仏智禅師と勅諡。武蔵飯沢の人。俗姓は丹治氏。
19歳のとき円爾弁円に師事した。正嘉2年(1258)宋に渡り、10年後帰国して、再び旧師につかえ、次いで太宰府の崇福寺
に移った。のち奥州へも巡化し、永仁2年届這東福寺第5世を継いだ。
浄土宗西山派の僧
- 元録12(1699)。号は大空。
倍山の法弟。貞享3年(1686)西山光明寺の35世を継いだが、助三の円頓戒補助儀の事件に関して江戸幕府から追放され、光明寺の世代から削られた。
浄土真宗本願寺の僧
享保15(1730) - 天明2(1782)。広島・報専坊の住職。初め宝雲と言い、字は子潤、号は甘露・洞水・東岳。
17歳で比叡山に上って天台を学び、ついで南都・高野山に学び、宗乗を僧樸から承けた。厳しく宗義をまもって門徒に神祠を撤廃させたので「神棚下しの報専坊」と呼ばれた。
門下に、大瀛・僧叡などの俊秀を多く輩出し、著作も多い。
慧惲
貞観14(640)-大足元(701)。唐代の浄土教の僧。善導の弟子。諡号は隆闡大法師。
長安の西明寺で得度し、実際寺の善導の門に入り、永昌元年(689)に実際寺の主となる。
善導の墓を長安の南、神禾原に建立し、後に香積寺となる伽藍を造る。
また、同門の懐感の没後、その著作『釈浄土群疑論』を完成させた。