おおたにこうずい
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大谷光瑞
明治9年-昭和23年〈1876-1948年〉
明治後期から大正にかけての浄土真宗本願寺派の第22世門主。21世光尊の長男として誕生。法名は鏡如。貞明皇后の姉九条籌子と結婚。
1903年、西域探検のためインドに滞在中に父が死去して継職。継職後も探検を続行させ、3回にわたる発掘調査等を実施した(大谷探検隊)。神戸六甲山上に二楽荘を建て、探検収集品の整理のほか、英才教育の学校、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。門主としては教団の近代化につとめ、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣。中国の孫文政府の最高顧問、第2次大戦中は内閣参議、内閣顧問を歴任した。
1914年、負債および疑獄事件のため隠退し、晩年は別府市で過ごした。
著書
『大谷光瑞全集』13巻