きょうにょ

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教如

(1558-1614)
 大谷派12代。11代顕如の長男。童名は茶々丸、諱は光寿、号して信浄院という。
 元亀元年(1570)に得度し、嗣法となったが、石山合戦末期、顕如に反して徹底抗戦の姿勢を見せたため、父との間に不和が生じ義絶される。織田信長の死後に和解し、文禄元年(1592)、顕如の示寂により本願寺を継職したが、豊臣秀吉の裁断により弟准如が継職することとなり、隠退して御裏方などと称された。
 慶長7年(1602)、徳川家康の寄進により京都七条烏丸に本願寺を別立した(現在の東本願寺)。

鏡如

(1876-1948)
 本願寺22代。明如の長男。童名は峻麿、諱は光瑞、諡は信英院。
 明治31年(1898)、23歳で九条壽子と結婚した。翌32年、清国の視察に赴き、さらに翌年からはインド仏跡巡拝ならびに欧州への外遊を行う。
 同35年(1902)には大谷探検隊を組織し、自ら指揮を執り西域文化の重要な史跡を発掘して仏教関係資料を収集した。翌36年、明如の示寂の知らせをうけて帰国し、28歳で本願寺を継職した。その後、明治41年(1908)、翌42年にも探検隊を派遣し西域の調査を行わせたが、それらの出費などから経済的問題が生じたため、その責を負い、大正3年(1914)、宗主を辞した。
 以後は上海や大連などを拠点に、アジア諸地域の産業の振興に尽力するとともに、仏教興隆のために人材育成や著述・出版活動に努めた。
 昭和23年、療養先の別府鉄輪において73歳で示寂した。