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じゅんにょ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

准如

(1577-1630) 本願寺12代。顕如の第4子。童名は阿茶、諱は光昭、号して理光院ともいう。

 初め本行寺に住したが、文禄2年(1593)、豊臣秀吉の裁断により教如に代わって本願寺の寺務を継ぎ宗主となった。在職中、津村別院、浜町別院(現在の築地本願寺)などを設立して教団の地方教化の体制を整えた。慶長7年(1602)には『浄土文類聚鈔』を開版した。慶長元年(1596)の大地震や元和3年(1617)の火災に際し、被害を受けた本願寺堂舎の復興に取り組んでいる。また、慶長8年(1603)、幕府の命によって大谷本廟を現在の地に移転させた。
 寛永7年、54歳で示寂した。諡号は信光院。

順如

(1442-1483)蓮如の第1子(長男)。母は如了尼。諱は光助。願成就院と称した。
 17歳で出家、文正年間(1466-1467)に蓮如から後継者として譲状を与えられたが固辞し、応仁2年(1468)に譲状を与えられた光養丸(後の実如)を後見した。特に朝廷や武家などとの対外交渉を担い、蓮如が吉崎に移っていた間は大津近松御坊(滋賀県大津市)で親鸞の真影を護持した。また、仏光寺経豪(蓮教)の本願寺への参入にも寄与するなど、蓮如を大いに補佐した。
 出口光善寺(大阪府枚方市)の開基とされる。


順如

(1738-1788)仏光寺派22代。21代寛如の子。諱は堯祐、院号は清浄楽院。
 明和7年(1770)に継職した。天明8年(1788)、天明の大火により本堂、御影堂が焼失したため、親鸞の影像などを東山別院(現在の仏光寺本廟、京都市東山区)に移した。