けろん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
戯論
prapañca (S)
サンスクリット原語の語義としては、「拡張」、「展開」、「現象」、「表示」、「説明」、「冗長」、「ばかげた対話」(戯曲用語)などであり、インド哲学の用語としては、「現象界」のことをいう。
正しくない無益な言論。これには愛著の心から行う愛論と、道理にくらい偏見から行う見論との二極がある。
有無二辺の中道は、人の想いや考えにおいて機能する論理である。つまり、この中道のはたらく「論理の地(場所)」は、想いや考えということになる。想いや考えをもたない人はいない。そして、それは、大半がことばとしてわたしたちの口から発せられるのである。だから、この中道は「想い」ばかりではなく「ことば」にも適用される論理である。 「想いやことばのはたらく地(場所)」は、ブッダの説いたことばでいうならば「戯論」(プラパンチャprapañca)である。
戯論が問題となるのは、おもに空を主張する中観思想との関連においてであるから、『中論』の用法をいくつか確かめてみる。
- 業と煩悩は分別(vikalpa)より起こる。それは戯論より起こる。戯論は空性において抑えられる。〔18.5〕
- 業と煩悩の滅によって、解脱がある。(a)
- 業と煩悩は、概念作用(vikalpa)から生ずる。(b)
- 概念作用は、言語的展開(prapañca)から生ずる。(C)
- しかし、言語的展開は、空性において止滅する。(d)〔18, 5〕
- 実相(tattvasya lakṣaṇam)は戯論によって戯論されない。〔18.9〕
- 戯論を超越している仏を戯論する者は戯論に害されて如来を見ない。〔22.15〕
以上のように、動詞形も含めて、戯論の意味には幅がある、チャンドラキールティの解釈を参照してまとめると次のようになる。
語義的には、戯論とは、ことば(vāc)であり、また意味をくわしく説明することである。そして教義的には、仏の真実の教説(deśanā)に対置するものとして、真実を離れたいたずらな説明・議論ということになる。さらに二諦説のもとに、勝義・涅槃・真如などに対置されるものとしての世俗・言説・分別などに近しく、分別のもとでもある。したがって、戯論とは、輪廻のうちに、意識界(cittagocara)において形成される。我(自性)の概念や、主・客、能知・所知、部分・全体などの二分法的認識方法のことでもある。
ほかに、戯論を、執着によるもの(愛論)、誤った見解によるもの(見論)というふうに分ける教義などもある。
しかしより重要な問題は、戯論ということばの背景にある世界観や言語観のほうである。すなわち、根源と現象、物とことばといった構図での現象・ことばが、戯論に相当するのである(この意味でも中観思想の「言説」に近い)。このことは、ある意味ではヴェーダーンタ哲学的な生成・顕現する世界というものを想起させるが、戯論は、根源的同一性を認めたうえで言われているのではない。
つまり、戯論とは、縁起説に見合った、きわめて仏教的な用語である。