こうりゅうじ
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広隆寺
峰岡寺〈ほうこうじ・はちおかでら〉・太秦〈うずまさ〉寺・泰公〈はたきみ〉寺・葛野〈かどの〉寺・川勝寺とも呼ぶ。
真言宗別格本山、京都市右京区太泰。創立には諸説があるが、古く渡来した帰化人の秦族が住んでいた土地で、もとは紙屋川の上流らしく、その長である秦河勝が603(推古天皇11年)に、聖徳太子より賜った仏像のため造立したという。従って平安奠都以前にすでに栄えていた山城最古の名刹である。然るに818(弘仁9)、1150(久安6)にも焼失したがその都度復興された。
鎌倉時代には聖徳太子の讃仰する風潮につれて桂宮院が建てられたが次第に衰えたらしい。現在の講堂はもとは金堂であったらしく五間四面単層四柱造の藤原建築で、中央の須弥壇には阿弥陀・地蔵・虚空蔵の坐像が三尊仏のように並び、本尊は下品中生の印を結ぶ藤原前期の木造で、定朝風へ進む過渡期の作である。なお堂内には千手観音立像(平安初期)と不空羂索観音立像(天平末期)との巨像が立つ。桂宮院本堂は奥の院とも称し、鎌倉建築で八角円堂。堂内には聖徳太子像ほかの仏像を安置し、堂前にある灯篭は太秦形という。霊宝殿には優秀な仏像を多数蔵することで有名である。
弥勒菩薩半跏像は聖徳太子作と伝える飛鳥彫刻で上半身裸体の柔和な傑作であり、他の一は百済国から献上したものと伝え、エキゾチックな姿態が見える。平安時代の作に毘沙門天立像・聖観音立像・吉祥天立像・弥勒菩薩坐像・地蔵菩薩立像・不動明王坐像などがあり、藤原期の十二神将・四天王立像は仏師長勢の作と伝え、同期の男神・女神坐像を存し、また能恵法師絵詞1巻がある。
境内の大避(おおさけ)神社の祭礼を牛祭といい、摩奼羅神をまつる奇祭(10月12日)である。