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しょうじん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

生身

は、生まれながらの身体を言う。父母から生まれた身体一般を指し、釈迦の肉体を意味し、仏像の対語として用いられる。

 のちに、特に菩薩(ぼさつ)が衆生を救済するために化現(けげん)する化身としての身体と同一視される。


精進

ヴィーリャ(vīrya)の訳。毘梨耶、毘離耶と音写し、勤(ごん)、精勤(しょうごん)、勤精進、進とも訳す。

 ひたむきに勇敢に善をつとめ励ます心のはたらき、または励む行為。

  1. 心所(心のはたらき)の名。倶舎宗では十大善地法の一(勤)、唯識宗では十一善心所の一とする。
  2. 勤の心所を体とするものに、四正勤および五根・五カ.七覚支・八聖道のうちの精進根・精進力などがある。
  3. 六波羅蜜十波羅蜜の一に精進波羅蜜を数え、特に菩薩が仏道のためにする精進を一般の精進から区別して精進波羅蜜とする。
  4. 大智度論16には菩薩に良精進と心精進との二種精進のあることを説き、成唯識論9には、被甲(甲をかぶったような勇敢さ)・摂善(しょうぜん)(善法を修行する)・利楽(衆生雛うの利益をはかる)の三種精進を説く。

 その他、精進の内容は種々に分類される。

 俗に身心を慎んで酒肉を断つのを精進、精進潔斎(しょうじんけっさい)という。

不退の精進

asallīna-viriya (P)

 不退の精進とは、けっして退転することのない努力精進であり、涅槃を求めて努力し続けることであり、忘失しない念とは、涅槃に向かって念じつづけ、集中しつづけて、片時も忘れないことである。これはきわめて重要であり、解脱の実現への地歩が次第に確かめられてきていることを意味する。

 『スッタニ・パータ』で、悪魔ナムチに対する、煩悩の誘惑を斥けている返答が、その意味をよく表している。

 わたしには、信saddhāと勤viriyaと慧paññāとがある。このように自ら励んでいるわたしに、どうしてお前は命jīvaのことを尋ねるのか。
 この風vātaは、河の流れをも涸らすであろう。自ら励んでいるわたしの血lohitaがどうして涸渇しないことがあろうか。
 血が乾くと、胆汁pittaと痰samhaも乾く。肉maṃsaがなくなると、心cittaはますます浄まり、わたしの念satiと慧paññāと定samādhiとはいっそう確立する。
 このようにわたしは安住し、最大の苦痛を受けており、心は諸欲にかかわることはない。見よ、身心のsattaの清らかなることを。