一義的には、数の多いことを塵や沙に喩える。
「塵沙の惑」といって、天台宗で見思・無明と共に三惑の1つに数え、三界の内外にわたってある惑で、仮観(けかん)によって破られるものである。智慧が劣っていて、すすんであらゆる差別相を知ろうとしないのをいい、これは菩薩が自由自在に衆生を教化するためのさまたげとなるから化道障の惑ともいう。