ちこう
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智光
河内国安宿郡の人。俗姓は鋤田連、後上村主と改む。母は飛鳥部造。師禀性純真にして9歳の時出家し、元興寺智蔵に就いて三輪を受け、又普く経論を渉猟し、戒行堅固にして聲望一時に高し。
初め安宿郡鋤田寺に居り、後元興寺極楽坊に住し、辱いで又仙光院に転ぜりと云ふ。同門の頼光(あるいは礼光)と交深く、龍樹及び曇鸞の智慧を倣ひ、三論を敷揚する傍ら厚く亦浄土を求む。
頼光晩年に及び人と語らずして寂す、師歎じて曰はく、頼光は是れ多年の親友なり、頃年言語なく、行法なくして遂に逝く。彼れ何処に受生せしや知らずと。即ち二三月の間至心に念ずるに、一タ夢に頼光が極東浄土に生ぜしを見、時に阿弥陀佛の右掌中に小淨土現ぜらるるを感じ、夢覚めて後、画工に命じて其の見る所の淨土の相を図せしむ。
是れ所謂「智光曼陀羅」にして、師は之を極楽坊に安置し、常に之に対して淨土の荘厳を観じ。宝亀年中を以て寂す、享寿詳ならず。凝然の『浄土法門源流章』には師を以て日本淨土六祖の初祖となせり。又『日本国現報善悪霊異記』巻中に依るに、師は曾て行基の聲望己が上に出づるを嫉み、天平十六年十一月(一説十七年正月)行基大僧正に任ぜらるるに及び、頗る憤恨の心を起す。一日鋤田寺に於て頓に死し、閻魔王の庁に至り、王の為に行基誹謗の罪を責められ、蘇生の後慚愧の念に堪へず、乃ち難波に往きて行基に前罪を懺謝せりと傅ふるも、是れ恐らくは事實に非ず、法相の徒が三論の学匠たりし師の声望を傷けんが為に捏造せし誣説なるべし。
著作
- 般若心經述義記一巻(現存)
- 浄名玄論略述四巻(内三巻現存)
- 大般若経疏二十巻
- 法華玄論略述五巻
- 中論疏記三巻
- 往生論釋五巻
- 盂蘭盆経疏一巻
- 安養賦
等あり。