にふちさんふしん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
二不知三不信
曇鸞は『論註』の五念門のなか、とくに第二讃歎門釈において、『浄土論』に示される「称彼如来名」について、阿弥陀仏の名号に
よく衆生の一切の無明を破し、衆生の一切の志願を満たす〔p.103〕
はたらきのあること、およびそうしたはたらきを持つ仏名号を称名・憶念すべきことを強調するとともに、さらに仏名号と名号によってあらわしだされる仏との関係を「法に即する」ものとして、名体不離なることを指摘している。また「如来の光明」についてはこれを智慧の相とし、光明に
十方世界を照すに障礙あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く〔p.103〕
はたらきのあることを指摘し、名号を称名・憶念すれば、必ず無明が除かれ、志願が満足されることを、如実に修行して名義と相応すると規定している。これに反して、
如実に修行せずして名義と相応せざる〔p.103〕
ことの原因を、二不知と三不信に見出している。いうところの二不知とは
如来はこれ実相身、これ為物身と知らざ
ることであり、またいうところの三不信とは、
一つには信心淳からず、存るが如く亡きが如くなる故に。二には信心一ならず、決定なきが故に。三には信心相続せず、余主じえ念を間るが故に。この三句展転して相い成ず〔pp.103-4〕
というのである。これら二不知・三不信をとりあげたことは、称名・憶念するには、必ず信仰の対象である阿弥陀仏に内証(実相身)と外相(為物身)の二つが具わっていることにたいする信知と、信心の淳厚・専一・相続という三種のあり方・信心のはこびの上に進めるべきことを示すためである。