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にょらいぞうしそう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

如来蔵思想

 大乗仏教のなかで、すべての衆生に仏となる可能性のあることを主張し、これを「如来となるべき胎児」という意味で〈如来蔵〉tathāgatagarbhaと呼び、また「仏となる因」という意味で、〈仏性〉(buddhadhātu)と名づける思想。
 『般若経』の空観に立ちつつも、『華厳経』の「性起品」における如来の智慧のはたらきの普遍性の主張や、『法華経』の三界の衆生は皆仏子とみる一乗思想などを承けて、『如来蔵経』が、「一切衆生は如来をそのうちに宿している」(sarvasattvās tathāgatagarbhāḥ)と宣言したのに始まる。その後、『勝鬘経』や『不増不減経』によって理論的に深化され、 また『涅槃経』は同じ主張を「一切衆生悉有仏性」の名で表明した。『如来蔵経』の成立は龍樹よりあと(3世紀後半以後)と推定されるが、5世紀はじめ頃、職伽行派の手によって『宝性論』が著わされ、如来蔵思想が体系的に叙述された。
 〈如来蔵〉は、古く〈自性清浄心〉と呼ばれたものをその内容としていて、そこにさとりの根拠が求められたが、煩悩は客塵(āgantuka)、すなわち一時的付着物にすぎないし、本来空であるに対し、自性清浄なる如来の性は、如来の法身とひとしく、無為なる真如とされた。〈性〉は本性(prakṛti)のほか、基台(dhātu、界)あるいは種姓(gotra、いわば家系に伝承される胤)の意も含んでいる。同時に、如来蔵はさとりを得る以前の名で、さとれば法身と呼ばれるというように区別され、前者を有垢真如、後者を無垢真如、あるいは、それぞれ本性清浄と離垢清浄と呼ぶ。
 また、如来蔵の語義に関して、

  1. 法身の遍在性からみて、衆生は宇宙大の如来法身の胎児たちでことごとく法身のうちにある。
  2. 真如の無差別性からいって、衆生はそのうちに如来と同じ真如を胎児として有している。
  3. 如来の種姓があるという意味で、衆生は如来となるべき種(胤)を胎児として有している。

の3義があるとされる。これは『仏性論』のいう所摂蔵、隠覆蔵、能摂蔵の三義に該当するが、ただそこでは、如来蔵が煩悩に覆われていること(有垢真如)、因位の如来蔵にすでに如来の諸徳性が具備されていること(不空如来蔵)の強調されていることが異なる。如来蔵思想は、瑜伽行派のなかで体系に組みこまれ、円成実性や仏の三身の説の基本にすえられたが、仏や如来蔵の実有性を強調する点で、中観派によって方便説とみなされた。しかし、一乗思想に立つ点で、瑜伽行派の三乗や五姓各別説と対立し、後代には中観派のなかでその位置を恢復する。
 一方、中国においては、『涅槃経』とともに仏性思想としてはやくに重要性をもち、のちには『大乗起信論』によって、如来蔵縁起宗の名を得て尊重された。わが国の仏教の伝統も、一乗、一切皆成を基本とする点で、如来蔵思想に立脚していると考えられる。

如来蔵縁起説

 如来蔵思想の基本的立場を前提として、如来蔵と煩悩または迷いの世界全体との関係を積極的に解釈しようとするのが如来蔵縁起説である。もっとも、如来蔵と煩悩との関係という点だけであれば、すでにインドにおける如来蔵系諸経論においても、法身が無辺際の煩悩にまとわれた状態を如来蔵という、などの捉え方として、あきらかに見られるところである。
 しかし、如来蔵思想における教理の中核は、直接に衆生の心すなわちわれわれの意識領域を追及することによってではなく、如来法身・如来智などに対する考察からあみだされたものであった。それに対して、いわゆる如来蔵縁起説では、衆生心中における如来蔵の存在あるいは存在の根拠を主張することよりも、むしろそのような如来蔵の観念を前提として、それにもとづいて迷悟染浄の織りなす衆生の世界、迷いの心の領域をいかにして説明するかということに主眼点がおかれている。
 「如来蔵縁起」の語は、中国華厳教学の大成者、賢首大師法蔵(643-712)の『大乗起信論義記』に出るのが最初である。そこではインド伝来の一切の経論を4宗に分けて、
第1、随相法執宗(小乗諸部の立場)
第2、真空無相宗(龍樹・提婆の所立、般若などの経と中観などの論の所説)
第3、唯識法相宗(無著・世親の所立、解深密などの経と瑜伽などの論)
第4、如来蔵縁起宗(楞伽・密厳などの経と起信・宝性などの論の所説)
 第4は、事を会して理を顕わす第2の立場と、理に依りて事の差別を起こす第3の立場とを止揚した、理事融通無礙の世界を示しうる立場であると位置づけた。すでに、『華厳経』十地品あるいは『十地経』の第六現前地の経文に「三界唯一心作、十二因縁分皆依心」の句があり、また初期如来蔵系経典である『勝鬘経』にも、「生死者依如来蔵」あるいは「有如来蔵故説生死」といって、如来蔵が染浄の依止となることを説いている。
 しかし、『勝鬘経』においてもまたそれを承けた『宝性論』においても、如来蔵が衆生の生死のよりどころであるという面は、あまり問題にされていない。如来蔵と無明とが一体となった阿梨耶識を立てて、現実における衆生の迷いの生存の心識面での展開と、そこにおける無明の断尽を、縁起の理論を適用して組織的に示したのは『大乗起信論』である。上の『大乗起信論義記』中の第四の立場は、如来蔵系諸経論を広く考えているようであるが、法蔵の華厳教学における如来蔵縁起説なるものの実質は、『起信論』における心生滅門の所説とそれに対する法蔵の理解内容を指すと考えてよい。