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むしょうしょ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

無所有處

ākiṃcanya-āyatana (S)、ākiñcañña-āyatana (P)

 いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。無色界の4処のうちの第3。無色界の禅定のうち、第3に位すること。何も存在しないと観察すること。

1070 師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸をの欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」 〔スッタニパータ〕

集異門論6 T26-392b〕〔瑜伽論3 T30-292b〕〔倶舎論8〕〔異部宗輪論 T49-15c〕

 のちの仏教では、無所有処定は、四無色定の第三番目とされ、この境地に達するというのは、無色界の無所有処と呼ばれる場所(無色界であるから、本当は場所は特定できないことになっているが)に住することであると解釈される

 アーラーラ・カーラーマ仙人の手ほどきを受けたゴータマ・ブッダが、成道ののちにも愉しんでいた瞑想のうちの少なくともひとつは、まちがいなくアーラーラ・カーラーマ仙人直伝の無所有処の瞑想であったことは確かである。
 アーラーラ・カーラーマ仙人がいうところの無所有処というのは、瞑想の果てにたどりつく、見る者も見られるものも何もないという心境のことであろう。これは、はるか後世の『ヨ-ガ・スートラ』(ヒンドゥー教ヨーガ学派の根本テクスト)における「心のはたらきの停止」という意味でのヨーガ、つまり三昧(サマーディ)に相当するものと思われる。心のはたらきが停止するとは、感情も思考も停止することである。