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そうそくそうにゅう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

ゆうそくから転送)

相即相入

 華厳宗教学の縁起思想。
 相即相入との併称。相即相容ともいい、略して即入ということもある。宇宙の万象が対立せず、互いに融けあい作用しあって、無限に密接な関係を保っているのをいう。十玄門でいえば、一多相容不同門(相入)と諸法相即自在門(相即)とにあたり、華厳宗教義の骨子である(華厳五教章巻四、華厳経探玄記巻四など)。
 相即とは、すべての現象の体について、互いに一方が空であれば他方は必ず有であるとし、同時に空または有となることがないから、常に両者は互いにとけあい一体化して礙げることがないことをいう。例えば、一がなければ多は成り立たないから、一があれば即ち一切(すべて)があることになる。この場合、一切という空の側についていえば、自らの一切はなくなって他の一にとけあって一体化し、同時に一という有の側についていえば、他の一切は自らの一に摂まってとけあって一体化する。故に一切即一である。逆に一が空、一切が有とすれば、同様の意味で一即一切となる。このような関係を相即という。
 相入とは、すべての現象は縁のはたらきによってあり、その用(はたらき)は互いに一方が有力であれば他方は必ず無力であるとし、同時に有力または無力となることがないから、常に両者は互いに作用しあって対立することがなく、互いに和し合うことをいう。即ち縁によって起こるということは、各々の縁がそれぞれ少しずつの力をもっていて、それらの縁が集まってはじめて生ずるというのではなく、各々の縁のうち、一縁(一)を欠いても現象は全く起こらず、他のすべての縁(多)は役立たないことになる。故に、縁のはたらきは、一は有力であってよく多を容れ、多は無力であって潜んで一に入るから多即一となる。また逆に、一を無力、多を有力と見れば一即多となる。このような関係を相入という。

 待縁・不待縁〈→の六義〉によって異体門・同体門を立て、異体相即・同体相即・異体相入・同体相入の説を立てる。即ち、諸現象をあい望ませて相即相入を語るのと、一現象そのことにおいて相即相入を語るのとである。

 相即と相入との関係は、体と用とによって分けたのであるが、用としてはたらかないのならば体ではないから、体を用に収めれば相入のみであり、用は体のはたらきであるから、用を体に収めれば相即のみであるということができる。

 円融融通融即ともいう。〔『華厳五教章』T45-504c, 『華厳探玄記』4,T35-173参照〕