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ゆが

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

瑜伽

サンスクリット「yoga योग」の音写語。原義は「結びつくこと」「結びつけること」の意で、「相応」と訳すべきである。
なお、yogaの女性形はyogin यॊगिन्であり、yogaの修行者のこと。

感覚器官が自らに結びつくことによって心を制御する精神集中法や、自己を絶対者に結びつけることによって瞑想的合一をはかる修行法をさし、最近の心身の健康増進法としての「ヨガ」もこれに由来する。
仏教では、瑜伽行派(Yogācāra योगचार)において、このような実践方法が重んじられ、独自の体系のもとに記述された。語の用例としては、上述のほかに、南海寄帰内法伝 に、中観派に対する瑜伽行派の呼称として「瑜伽」という語が使われ、それに準じた用例も多いが、今日ではあまり用いられない。
現今では瑜伽行派唯識派、または原音で「ヨーガーチャーラ派」というのが一般的である。

相応に5義ある。

  1. 境‥‥一切法の自性
  2. 行‥‥定慧などの行
  3. 理‥‥安立・非安立の二諦
  4. 果‥‥無上菩提の果を得る
  5. 機‥‥薬病が相応するようなもの

顕教では理相応をとる。密教では行相応の義をとる。瑜伽三密がこれである。

 原語yogaは「結合する」という動詞 yuj から派生した名詞で、「結び付く」「結合する」というのが原意である。したがって yoga を相応と意訳する。その結合は次の二段階を経る。(I)身と心とが結合する。(Ⅱ)結合した身心から起こる智慧が究極的真理(〈唯識〉的にいえば真如の理)と結合する。瑜伽は狭義の瑜伽と広義の瑜伽とに分けられる。

(ⅰ)狭義の瑜伽。奢摩他)と毘鉢舎那)とから成り立つ。このなか奢摩他とは内住・等住・安住・近住・調順・寂静・最極寂静・專注一趣・等持の9つの心のありよう(行相)をもって心のなかに住することによって心が静まった状態をいう。奢摩他を修することによって寂静になった心が教え(法)を正しく観察する心を毘鉢舎那という。すなわち、ある教えの影像を心のなかに浮かべてその真実のありようを正しく追求し観察(正思択・最極思択・周遍尋思・周遍伺察・簡択・最極簡択・極簡択)する心をいう。〈唯識〉は、『解深密経』に

 衆生は相の為に縛せられ、及び麁重の為に縛せられる。要ず止観を勤修せよ、爾れば乃ち解脱を得ん。  〔『解深密経』1,T16-691b〕

と説かれるように、解脱するためには、奢摩他と毘鉢舎那(止と観)によって表層心と深層心とを浄化する必要があることを強調する。

(ⅱ)広義の瑜伽。『瑜伽師地論』に、瑜伽には信と欲と精進と方便とがあると説かれる。すなわち、信じること、欲すること、精進すること、方便する(修行する)こと、の4種が瑜伽であると説かれる〔『瑜伽』28、T30-438a〕。これによれば、静かに坐って止観を修するだけではなく、それを含めて「真理真実を追い求める生活全体」が瑜伽である。また

 九種の瑜伽とは、世間道・出世道・方便道・無間道・解脱道・勝進道・軟品道・中品道・上品道なり。  〔『瑜伽』13、T30-346c〕

と説かれる。これによれば、煩悩を断じて涅槃に至るまでの修行の道すべてが瑜伽である。また

 瑜伽とは、受持・読誦・問論・決択・正修加行なり。  〔『瑜伽』83、T30-760c〕

と説かれる。これによれば、経典を受持し読誦し問答し決択し止観を修するという仏道修行全体が瑜伽と考えられている。瑜伽によってもたらされる結果は、『瑜伽論』に

 所依滅および所依転とは、謂く、瑜伽作意を勤修習するが故に、あらゆる麁重と倶行する所依が漸次に滅し、あらゆる軽安と倶行する所依が漸次に転ず。  〔『瑜伽』28、T30-439a〕

と説かれるように、身心から成り立つ個人として存在のよりどころ(所依)が、束縛の状態(麁重)から自由の状態(軽安)に変化すること、すなわち、転依(所依を転ずること)を得ることである。そしてそれによって生じる無分別智の智慧によって真理(真如の理)を証することである。