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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

影像

pratibimba (S)

 (鏡や水などのなかに生じた)映像。真実には存在しないものの喩えの一つとして用いられる。
 〈唯識〉では依他起性(現象的存在)には実体がないことを示すための比喩の一つとして用いる。「影像が明鏡に依止するが如し」「依他起性は幻夢・光影・谷響・水月・影像及び変化などに同じく、猶し聚沫の如く、猶し水泡の如く、猶し陽焔の如く、猶し芭蕉の如し、と当に了知すべし」〔『摂論釈・世親菩薩』5,T31-344b~c〕

pratibimba: pratibhāsa

 心のなかに生じる像、表象、観念。たとえば、死体が腐乱していく様相である青瘀(青ぶくれになるさま)、膖脹(腐敗してふくれたさま)、虫蛆(うじ虫が出ているさま)などの影像を思い浮かべ、それら影像を観察・思考して、実際の身体が不浄であるという本質を知って、身体への執着を離れる修行を不浄観という。
 総じていえば、正法(正しい教え)を聞くことによって、その教えに説かれた事柄(所知事)の影像を心のなかに思い浮かべて(勝解して)再現し、再現された影像(所知事と同分の影像)を瑜伽の心(奢摩他毘鉢舎那)によって観察・思考し、最終的には影像を消し去って実際の事柄そのもの(所知事)を直接に知ることを目指す。
 〈唯識〉においては、究極の所知事(知られるべきもの)とは真如であり、唯識性である。

 影像には有分別影像と無分別影像との2種があり、前者は毘鉢舎那の、後者は著摩他の対象である。

 云何影像修。謂、或於有分別毘鉢舎那品三摩地所行影像所知事同分、作意思惟故、或於無分別著摩他品三摩地所行影像所知事同分、作意思惟故、諸所有修、名影像修。〔『瑜伽師地論』67、T30-668c〕