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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

1.尊師は、サーヴァッティーに滞在していました。

2.「比丘たちよ、わたしは、おまえたちに、縁起(パティッチャサムットゥパーダ)と縁起した法を説こう。これを聞いて、善く思念してみなさい。わたしは語ろう。」
「どうぞ、尊師よ」と、かの比丘たちは、尊師に答えました。

 尊師はこのように言いました。

3.「比丘たちよ、どのようなものが、縁起であるのか。
 比丘たちよ、<生まれること>に縁って老死がある、のは、如来が出る・出ないにはかかわらない。「定まっていること(ティター)」であるのが、この要素(界)であって、(それは)「法として確立していること(ダンマッティタター)」であり、「法として決定していること(ダンマニヤマター)」であり、「これに縁ること(イダッパッチャヤター)」である。 如来は、これをよく悟り、よく了解している。
 よく悟り、よく了解したのち、告げ、示し、知らしめ、設定し、開明し、分別し、明らかにし、『見よ』と言うのである。

4.比丘たちよ、<生まれること>に縁って老死がある。
  比丘たちよ、<有>に縁って生まれることがある。
  比丘たちよ、<取>に縁って有がある。
  比丘たちよ、<渇愛>に縁って、取がある。
  比丘たちよ、<感受>に縁って渇愛がある。
  比丘たちよ、<触>に縁って感受がある。
  比丘たちよ、<六入>に縁って触がある。
  比丘たちよ、<名色>によって六入がある。
  比丘たちよ、<識>に縁って名色がある。
  比丘たちよ、<行>によって識がある。
  比丘たちよ、<無明>に縁って行がある、という(以上の)ことは、如来が出る・出ないにかかわらない

 「定まっているのこと」であるのが、この要素(界)であり、(それは)「法として確立していること」であり、「法として決定していること」であり、「これに縁ること」である。如来は、これをよく悟りよく了解している。
 よく悟り、よく了解したのち、告げ、示し、知らしめ、設定し、開明し、分別し、明らかにし、『見よ』と言うのである。

5.比丘たちよ、<無明>に縁って行がある。 以上のように、比丘たちよ、そこにあるのは、「あるがままであること(タタター))」、「あるがままを離れないこと(アヴィタタター)」、「異ならざること(アナンニャタター)」、「これに縁ること(イダッパッチャヤター)」である。比丘たちよ、これが、縁起(パティッチャサムットゥパーダ)であると言われる。

6.それでは、比丘たちよ、どのようなものが縁起した法(性質)であるのか。
 比丘たちよ、老死は、無常であり、作られたもの(有為)であり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。

7.比丘たちよ、生まれることは、無常であり、作られたものであり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。

8.比丘たちよ、有は、無常であり、作られたものであり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。

9-16.比丘たちよ、取は…。比丘たちよ、渇愛は、…。比丘たちよ、感受は、…。比丘たちよ、触は、…。比丘たちよ、六処は、…。比丘たちよ、名色は、…。比丘たちよ、識は…。比丘たちよ、行は、…。

17.比丘たちよ、無明は、無常であり、作られたものであり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。比丘たちよ、これらが、縁起した法(性質)であると言われる。

18.比丘たちよ、聖なる弟子には、この縁起とこれら縁起した法(性質)とが、如実に、正しい智慧をもって、よく見られてはいる。
 だが、実に、彼は過去にさかのぼることがあるだろう。
 実に、わたしは過去世に有ったのだろうか、それとも、わたしは過去世になかったのだろうか。実にわたしは過去世に何であったのだろうか。実にわたしは過去世にどのような状態であったのだろうか。わたしは過去世において、何になった後、何であったのだろうか、と。

19.あるいは、かれは未来に向かうことがあるだろう。
 実に、わたしは、未来世にあるだろうのか、それとも、わたしは、未来世にないのだろうか。
 わたしは、未来世に何になるのだろうか。未来世に、どのような状態でいるのだろうか。
 わたしは未来世において何になった後何になるのだろうか。

20.あるいは、かれは、現在において、自己のうちに疑いが起こることもあるだろう。
 わたしは、実に有るのだろうか、それとも、ないのだろうか。
 わたしは何であろうか。わたしはどのような状態なのだろう。
 わたしという生き物は、どこから来て、どこに行くものとなるのだろうか。
 この道理(ターナ)は知られない。

21.これは、どうしてなのか。比丘たちよ、このように、聖なる弟子には、
 この縁起と縁起した法(性質)とが、如実に、正しい智慧をもってよく見られているからである」と。

『サンユッタ・ニカーヤ』12-31.(PTS Text,Ⅱ.pp.47-50)