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ぎょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

saṃskāra (S); sańkhara (P); ḥdu-byed (T)

十二因縁

 現在の果を招くべき過去の諸業を言う。

 宿の諸業を行と名づく。〔倶舎論9〕
 此の中、無明とは、唯能く正しく後世を感ずる善悪の業を発するもののみを取る。即ち彼が所発を乃ち名づけて行となす。此れに由りて一切の順現受業と別助当業とは皆行支に非ず。〔成唯識論8、T31.0043b〕

と言われるのがこれである。
 これはすなわち異熟の総報を感ずる過去の身口意三業を名づけて行支とする、という意味である。

五蘊

 「行蘊」のことである。

 云何が行受陰なる、謂はく六思身なり。何をか六と為す、謂はく眼触所生の思、乃至意触所生の思なり。是れを行受陰と名づく。〔雑阿含経3、T2.0015c〕

と言い

 前及び後の色と受と想と識とを除き、余の一切の行を名づけて行蘊となす。然るに薄伽梵契経の中に於いて六思身を行蘊となすと説くことは、最勝なるに由るが故なり。所以は何ん、行は造作に名づく。思は是れ業の性にして、造作の義強し。故に最勝となす。是の故に佛は、若し能く有漏有為を造作するを行取蘊と名づくと説く。〔倶舎論1、T29.0004a〕

と言えるのがこれである。これは倶舎などに於いては、思は業の性であるから造作の意味が強いから、経に六思身をもって行蘊としているとしても、行はただ思だけではなく、色受想および識の4蘊を除いて、ほかの44の心所および十四不相応法を総称すべきものである、という意味である。
 しかし、経部および大乗においては、唯六思身だけをもって行蘊とし他の言い方はしない。これは「思」が造作の性であり、独り行と名づけられるべきとしているからである。
 十二因縁中の行支も、その体はおそらく「思」であって、これによって導引摂養された諸行も総称されるものであろう。