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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(無我苦)
 
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=無学=
 
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azaikSa (skt.)
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<big>aśaikṣa</big> (S)<br>
 
 もう学ぶものがない、という意味で、[[ぼんのう|煩悩]]が断じ尽くされた修行の結果を指す。
 
 もう学ぶものがない、という意味で、[[ぼんのう|煩悩]]が断じ尽くされた修行の結果を指す。
  
 
=無我苦=
 
=無我苦=
 
 [[むが|無我]]をさとった時に生じる「苦」であり、「[[だいく|大苦]]」とも呼ばれる。
 
 [[むが|無我]]をさとった時に生じる「苦」であり、「[[だいく|大苦]]」とも呼ばれる。
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 無我をさとるということは、無明の克服のためであった。無明を克服するということは、自我にとどまろうとする我執の克服であり、それが無我の自覚である。それは、すべての否定であり、絶対無の深淵に落ち込むことともなる。よって、無我の自覚とは、自己自身の自己否定であり、生活や生命の営みの否定である。これが'''無我苦'''と呼ばれるものである。<br>
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 釈尊のさとりは、自己否定ではなく、本当の生活でなくてはならなかった。すなわち、無我と自己を破りさったところに、かえって無我のまま復活しうる道があったはずである。それこそ、真実の縁起の自覚であった、と言える。これが'''無我苦の克服'''となる。

2023年8月10日 (木) 16:47時点における最新版

無学

aśaikṣa (S)
 もう学ぶものがない、という意味で、煩悩が断じ尽くされた修行の結果を指す。

無我苦

 無我をさとった時に生じる「苦」であり、「大苦」とも呼ばれる。

 無我をさとるということは、無明の克服のためであった。無明を克服するということは、自我にとどまろうとする我執の克服であり、それが無我の自覚である。それは、すべての否定であり、絶対無の深淵に落ち込むことともなる。よって、無我の自覚とは、自己自身の自己否定であり、生活や生命の営みの否定である。これが無我苦と呼ばれるものである。
 釈尊のさとりは、自己否定ではなく、本当の生活でなくてはならなかった。すなわち、無我と自己を破りさったところに、かえって無我のまま復活しうる道があったはずである。それこそ、真実の縁起の自覚であった、と言える。これが無我苦の克服となる。