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覚は物事を推しはかる心の粗いはたらき、観は細かいはたらき、の意で、ともに禅定の心をさまたげる。心の粗いはたらきや細かいはたらき。粗い心と細かい心。〔維摩経、T14. 540a〕〔往生要集、T84. 67a;73b〕 | 覚は物事を推しはかる心の粗いはたらき、観は細かいはたらき、の意で、ともに禅定の心をさまたげる。心の粗いはたらきや細かいはたらき。粗い心と細かい心。〔維摩経、T14. 540a〕〔往生要集、T84. 67a;73b〕 | ||
「覚」と「観」は言語を発する因である。したがって、覚・観の心を離れると言語もないという。「覚観地」(tārkika) | 「覚」と「観」は言語を発する因である。したがって、覚・観の心を離れると言語もないという。「覚観地」(tārkika) |
2024年3月24日 (日) 15:27時点における最新版
覚観
vitarka-vicāra वितर्क विचार (P)
「覚観」は旧訳であり、新訳は尋伺である。
「覚知と観察」のことであり、初期経典ではしばしばセットで出てくる。
覚は物事を推しはかる心の粗いはたらき、観は細かいはたらき、の意で、ともに禅定の心をさまたげる。心の粗いはたらきや細かいはたらき。粗い心と細かい心。〔維摩経、T14. 540a〕〔往生要集、T84. 67a;73b〕
「覚」と「観」は言語を発する因である。したがって、覚・観の心を離れると言語もないという。「覚観地」(tārkika)