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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
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(skt.) manas मनस्
 
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[[ゆいしきろん|唯識論]]で説く八識のうち第七識であり、[[だいはっしき|第八識]]を所依として、第八識の[[けんぶん|見分]]を所縁として生じる識である。<br>
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未那識を「意」と訳す。「意」は思量の意味であり、この識は常に第八識の見分を縁じて、我である、法である、と思量するから未那と言われる。我法二執の根本である。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である[[あらやしき|阿頼耶識]]を対象として、それを自分であると考えて[[しゅうじゃく|執着]]し続ける。<br>
 
未那識を「意」と訳す。「意」は思量の意味であり、この識は常に第八識の見分を縁じて、我である、法である、と思量するから未那と言われる。我法二執の根本である。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である[[あらやしき|阿頼耶識]]を対象として、それを自分であると考えて[[しゅうじゃく|執着]]し続ける。<br>
 
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。
 
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。
  
 
第六識も「意識」というので、その違いは、意識は意によって生じる識であるから意識という。依主釈。未那識は持業釈である。
 
第六識も「意識」というので、その違いは、意識は意によって生じる識であるから意識という。依主釈。未那識は持業釈である。

2004年4月7日 (水) 08:51時点における版

未那識

(skt.) manas मनस्

唯識論で説く八識のうち第七識であり、第八識を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である。
未那識を「意」と訳す。「意」は思量の意味であり、この識は常に第八識の見分を縁じて、我である、法である、と思量するから未那と言われる。我法二執の根本である。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。

第六識も「意識」というので、その違いは、意識は意によって生じる識であるから意識という。依主釈。未那識は持業釈である。