「あんしんりつめい」の版間の差分
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− | + | このうち、「安心」は仏教の用語であり、「立命」は儒教の用語である。この二種の異なる用語を連結して、中国で造られたことばであるから、一般には'''あんしんりつめい'''でよい。しかし、安心が仏教語であり、これを仏教の用語としてみれば慣例的に'''あんじんりゅうみょう'''と読んでもよい。 | |
− | [[あんじん|安心]]は、自己の心の真実のありかたの明らかな自覚によって心を不動に安住せしめることであるとされる。しかし、ただ不動であるものはすでに心の働きを失ったことであるから、安住不動といってもけっして、ただ不動でなく、'''動いているままが真実にかなっている'''ということである。<br> | + | [[あんじん|安心]]は、自己の心の真実のありかたの明らかな自覚によって心を不動に安住せしめることであるとされる。しかし、ただ不動であるものはすでに心の働きを失ったことであるから、安住不動といってもけっして、ただ不動でなく、'''動いているままが真実にかなっている'''ということである。<br> |
− | '''立命'''とは天の命の帰するところを知って、それを全うすることを意味している。<br> | + | '''立命'''とは天の命の帰するところを知って、それを全うすることを意味している。<br> |
− | + | その意味で「安心立命」とは、仏教でいう場合、 | |
+ | :真如の理の自覚によって、それに随順して正しく身を処していく | ||
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漢語の辞典には「いっさいを絶対に委せきって心を動かさない安祥の境地をさす」といわれる。それは単なる不動であることをいうのではなく、動いても動いても、それがそのまま真理にかない、真理を全うできる人間の実践の姿をいったものである。 | 漢語の辞典には「いっさいを絶対に委せきって心を動かさない安祥の境地をさす」といわれる。それは単なる不動であることをいうのではなく、動いても動いても、それがそのまま真理にかない、真理を全うできる人間の実践の姿をいったものである。 | ||
− | + | これに類似して'''安身立命'''という熟語があるが、それは | |
+ | :天命の帰するところを知って身を立て、心に憂い悩むところがない | ||
+ | といわれるように、世間に対して正しく身を処していくことをいったものである。 |
2007年12月26日 (水) 09:18時点における最新版
安心立命
あんしんりつめい、あんじんりゅうみょう
このうち、「安心」は仏教の用語であり、「立命」は儒教の用語である。この二種の異なる用語を連結して、中国で造られたことばであるから、一般にはあんしんりつめいでよい。しかし、安心が仏教語であり、これを仏教の用語としてみれば慣例的にあんじんりゅうみょうと読んでもよい。
安心は、自己の心の真実のありかたの明らかな自覚によって心を不動に安住せしめることであるとされる。しかし、ただ不動であるものはすでに心の働きを失ったことであるから、安住不動といってもけっして、ただ不動でなく、動いているままが真実にかなっているということである。
立命とは天の命の帰するところを知って、それを全うすることを意味している。
その意味で「安心立命」とは、仏教でいう場合、
- 真如の理の自覚によって、それに随順して正しく身を処していく
ことをいう。いわば、
- 真実を生きることによる安らかさ
を示している。
漢語の辞典には「いっさいを絶対に委せきって心を動かさない安祥の境地をさす」といわれる。それは単なる不動であることをいうのではなく、動いても動いても、それがそのまま真理にかない、真理を全うできる人間の実践の姿をいったものである。
これに類似して安身立命という熟語があるが、それは
- 天命の帰するところを知って身を立て、心に憂い悩むところがない
といわれるように、世間に対して正しく身を処していくことをいったものである。