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あんじん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

安心

心配がないこと。心が安らぐこと。心が安らかなこと。語源は仏教用語。

  1. 心をひと所にとどめて安住不動であること。
  2. 阿弥陀仏の救いを信じ、往生を願う心。

浄土真宗では、阿弥陀仏から回向された信心であるから、安心は即ち信心である。

  1. 宗派の教えの根本眼目を指す。

 安心とは、心をして一所に依托止住せしめて、安住不動なる ことをいうのである。いわゆる聖道門の立場では、 この安心は心を安住せしめることであり、それは自 分の心の真実の在りかたを観察することである。そ こで、「法性をもって、その心を安んずること」であ るとか、「流転の凡夫の心が菩提心に安住して仏果を 成ずること」をいうとかと説明される。いわば聖道 門では観心観道と同意であると言える。
 ところが浄土門では、一般に阿弥陀仏の救済を信 じて往生浄土を願う心をいい、『大無量寿経』の至心・ 信楽・欲生の三心、『観無量寿経』の至誠心・深心・廻向発 願心の三心、『阿弥陀経』の一心などをさしていうの である。これら三心の意味の解釈については、浄土 異流では、それぞれ特色があるが、その安心は常に 起行に対していわれるのである。
 さて、安心とは正しくは上にあげた三心や一心を いうのであるが、畢竟、安心とは信心をいうのであ る。聖道門では安心はそのまま信心ではないが、浄 土門では信心が、そのまま安心とよばれるところに 注意すべきものがあろう。この点を徹底して示すも のが蓮如上人の『御文章』である。すなわち「安心 という二字をばやすきこころとよめるは、このここ ろなり」と。
 いま、ここに安心とは「やすき心」であるといわ れるが、それは浄土真宗の信心が、仏から与えられ たものであるからである。みずからが仏を信ずるの でなく、信ぜしめ行ぜしめられるのである。すなわ ち、信ずる力も仏からあたえられたものである。こ のように信心が安心であることは、親鷲聖人の「ま ことのこころ」「無疑の心」と信心を釈せられるとこ ろにも明らかである。「まことの心」は「仏心」であ り、「無疑の心」は仏と一体になれるところに現われ るものである。
 このように考えてくる時、仏教の信仰と他の宗教 との差異が明らかになるであろう。すなわち、一般 に宗教は絶対者を外にみて、その外なる絶対者への 帰依においてなり立つものである。ところが、仏教では仏と人との一体感に立つものであり、仏はむし ろ常に内なるものとして考えられるのである。すな わち、一般に外に絶対者をみる場合、その絶対者と 人間との結合の力である信仰は、常に根底に不安と 危機とがあることになり安心にはならない。ここに 立場の明らかな相違がみられる。

参考:安心立命/安心立命