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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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'''声聞乗'''(しょうもんじょう)、'''縁覚乗'''(えんがくじょう)の二つ。
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'''声聞乗'''(しょうもんじょう)、'''縁覚乗'''(えんがくじょう)の二つ。
  
「乗」とは乗物の意味で、[[しょうもん|声聞]]や[[えんがく|縁覚]]の人びと、あるいはかれらの立場を意味する。二乗は、現世に対する執着を断った聖者(阿羅漢(あらかん、arhat &#x0905;&#x0930;&#x094d;&#x0939;&#x0924;&#x094d;))ではあるが、現実逃避的、自己中心的であり、利他の行を忘れたものとして、[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]から「小乗」と称された。<br>
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 「乗」とは乗物の意味で、[[しょうもん|声聞]]や[[えんがく|縁覚]]の人びと、あるいはかれらの立場を意味する。二乗は、現世に対する執着を断った聖者(阿羅漢(あらかん、arhat &#x0905;&#x0930;&#x094d;&#x0939;&#x0924;&#x094d;))ではあるが、現実逃避的、自己中心的であり、利他の行を忘れたものとして、[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]から「小乗」と称された。<br>
直接「小乗」と名指しで非難されたのは、西北インドに勢力を有した[[せついっさいうぶ|説一切有部]](せついっさいうぶ)や[[とくしぶ|犢子部]](とくしぶ)などのいくつかの部派であったようである。''大智度論''では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。<br>
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 直接「小乗」と名指しで非難されたのは、西北インドに勢力を有した[[せついっさいうぶ|説一切有部]](せついっさいうぶ)や[[とくしぶ|犢子部]](とくしぶ)などのいくつかの部派であったようである。''大智度論''では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。<br>
二乗の者は地獄にさえ堕ちないと言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないということで、二乗は仏になれないと非難されているのである。
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 二乗の者は地獄にさえ堕ちないと言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないということで、二乗は仏になれないと非難されているのである。
  
 
* 大乗と小乗とを二乗と呼ぶこともある。
 
* 大乗と小乗とを二乗と呼ぶこともある。
 
『[[だいちどろん|大智度論]]』では、「仏乗」「声聞乗」の二つの名前で「二乗」と呼んでいる。
 
『[[だいちどろん|大智度論]]』では、「仏乗」「声聞乗」の二つの名前で「二乗」と呼んでいる。

2008年1月14日 (月) 08:41時点における版

二乗

声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚乗(えんがくじょう)の二つ。

 「乗」とは乗物の意味で、声聞縁覚の人びと、あるいはかれらの立場を意味する。二乗は、現世に対する執着を断った聖者(阿羅漢(あらかん、arhat अर्हत्))ではあるが、現実逃避的、自己中心的であり、利他の行を忘れたものとして、大乗仏教から「小乗」と称された。
 直接「小乗」と名指しで非難されたのは、西北インドに勢力を有した説一切有部(せついっさいうぶ)や犢子部(とくしぶ)などのいくつかの部派であったようである。大智度論では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。
 二乗の者は地獄にさえ堕ちないと言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないということで、二乗は仏になれないと非難されているのである。

  • 大乗と小乗とを二乗と呼ぶこともある。

大智度論』では、「仏乗」「声聞乗」の二つの名前で「二乗」と呼んでいる。