「そうとうしゅう」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
(新しいページ: '=曹洞宗= 中国に起こった禅宗の一派。洞山と曹山とを開祖とするので「曹洞」と呼んだという説と、曹渓慧能と洞山によって「...') |
細 (→日本の曹洞宗) |
||
11行目: | 11行目: | ||
1227年(安貞1)道元、帰国。深草に興聖寺を開いた。<br> | 1227年(安貞1)道元、帰国。深草に興聖寺を開いた。<br> | ||
1243年(寛元1)波多野義重に請われて越前に移る。<br> | 1243年(寛元1)波多野義重に請われて越前に移る。<br> | ||
− | + | 1244年、[[えいへいじ|永平寺]]を開き,曹洞禅の根本道場とした。 | |
− | 孤雲懐弉(えじょう)が永平寺2世となったが、3世徹通義介は加賀大乗寺に移り、4祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん) | + | 孤雲懐弉(えじょう)が永平寺2世となったが、3世徹通義介は加賀大乗寺に移り、4祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は能登に[[そうじじ|総持寺]]を開いた。その門から峨山・明峰の2派が全国的に展開した。永平寺における[[しかんたざ|只管打坐]]の純粋な道元の禅は、瑩山門下によって民衆化されていった。 |
永平寺、総持寺を両大本山とし、道元を高祖、瑩山を太祖、併せて両祖と尊称する。江戸時代には、「関三刹(かんさんせつ)」といわれる総寧寺・竜穏寺・大中寺を中心に本末関係が整えられた。 | 永平寺、総持寺を両大本山とし、道元を高祖、瑩山を太祖、併せて両祖と尊称する。江戸時代には、「関三刹(かんさんせつ)」といわれる総寧寺・竜穏寺・大中寺を中心に本末関係が整えられた。 |
2008年11月7日 (金) 07:14時点における最新版
曹洞宗
中国に起こった禅宗の一派。洞山と曹山とを開祖とするので「曹洞」と呼んだという説と、曹渓慧能と洞山によって「曹洞」とする説があるが、いずれにせよ開祖の名前からとって「曹洞宗」と言うようになった。
中国の曹洞宗
中国禅宗の五家七宗の一つ。南宗の青原行思・石頭希遷・雲巌曇晟の法系につながる洞山良价(とうざんりょうかい)の系統である。
この系統の天童如浄(にょじょう)に、道元が入宋して師事した。
日本の曹洞宗
1225年(南宋の宝慶1)、道元が如浄の元で得法した。
1227年(安貞1)道元、帰国。深草に興聖寺を開いた。
1243年(寛元1)波多野義重に請われて越前に移る。
1244年、永平寺を開き,曹洞禅の根本道場とした。
孤雲懐弉(えじょう)が永平寺2世となったが、3世徹通義介は加賀大乗寺に移り、4祖瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は能登に総持寺を開いた。その門から峨山・明峰の2派が全国的に展開した。永平寺における只管打坐の純粋な道元の禅は、瑩山門下によって民衆化されていった。
永平寺、総持寺を両大本山とし、道元を高祖、瑩山を太祖、併せて両祖と尊称する。江戸時代には、「関三刹(かんさんせつ)」といわれる総寧寺・竜穏寺・大中寺を中心に本末関係が整えられた。