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+ | 何にも頼ることのない人間の本質的「苦」を指しており、その「苦」を克服するために、釈尊は対話と修行によって自らの心の有り様を共有する必要を感じられた。その心の動きが「梵天勧請」に表現されている。 | ||
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:「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは婆羅門を尊び敬い、近づきて住すればよいであろうか」 〔saMyutta-nikaaya, gaaravo(恭敬)〕 | :「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは婆羅門を尊び敬い、近づきて住すればよいであろうか」 〔saMyutta-nikaaya, gaaravo(恭敬)〕 |
2013年8月7日 (水) 15:49時点における版
大苦
釈尊がさとりを開いた直後、自らが仏陀としてただ一人であることに気付き、孤独であることの「苦」を表わした語である。武邑尚邦は、この「苦」を「無我苦」と呼んでいた。
何にも頼ることのない人間の本質的「苦」を指しており、その「苦」を克服するために、釈尊は対話と修行によって自らの心の有り様を共有する必要を感じられた。その心の動きが「梵天勧請」に表現されている。
『雑阿含経』に漢訳されているが、同じ経典のパーリ訳では
- 「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは婆羅門を尊び敬い、近づきて住すればよいであろうか」 〔saMyutta-nikaaya, gaaravo(恭敬)〕
と表現されている。
- その時世尊、独り静かに思惟してこの念を為す。恭敬せざる者は則ち大苦を為す。 〔雑阿含経 T2-321c〕