「けんなく」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
(→見惑) |
|||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
=見惑= | =見惑= | ||
〔⇔[[しゅわく|修惑]]〕 | 〔⇔[[しゅわく|修惑]]〕 | ||
− | 惑とは心の迷い、惑いで、[[ぼんのう|煩悩]]のこと。<br> | + | 惑とは心の迷い、惑いで、[[ぼんのう|煩悩]]のこと。<br><br> |
'''見惑'''とは見道で滅ぼされる惑、'''修惑'''(思惑)とは修道で滅ぼされる惑を意味する。<br> | '''見惑'''とは見道で滅ぼされる惑、'''修惑'''(思惑)とは修道で滅ぼされる惑を意味する。<br> | ||
[[くしゃ|倶舎]]では、[[したい|四諦]]の理(仏教の真理)に迷う迷理の惑の'''見惑'''、現象的な事物に執われて迷う迷事の惑を'''修惑'''とする。<br> | [[くしゃ|倶舎]]では、[[したい|四諦]]の理(仏教の真理)に迷う迷理の惑の'''見惑'''、現象的な事物に執われて迷う迷事の惑を'''修惑'''とする。<br> | ||
[[ゆいしき|唯識]]では、邪師や邪教などの誘導により、または心におもい計って起こす後天的(分別起(ふんべっき))な煩悩を'''見惑'''、生まれるとともに自然に生じる先天的な(倶生起(くしょうき))煩悩を'''修惑'''とする。<br> | [[ゆいしき|唯識]]では、邪師や邪教などの誘導により、または心におもい計って起こす後天的(分別起(ふんべっき))な煩悩を'''見惑'''、生まれるとともに自然に生じる先天的な(倶生起(くしょうき))煩悩を'''修惑'''とする。<br> | ||
− | [[てんだいしゅう|天台宗]]ではこの見思(けんじ)の二惑は空観によって断たれる煩悩であるとして、塵沙(じんじゃ)の惑・無明(むみょう)の惑に対立させ、あわせて三惑という。そのうちで見思の惑はいずれも三界内のものに対して起こり、三界の生死(迷いの生存)をまねくものであるから界内の惑、三乗が共通して断たねばならないものであるから通惑という。 | + | [[てんだいしゅう|天台宗]]ではこの見思(けんじ)の二惑は空観によって断たれる煩悩であるとして、塵沙(じんじゃ)の惑・無明(むみょう)の惑に対立させ、あわせて三惑という。そのうちで見思の惑はいずれも三界内のものに対して起こり、三界の生死(迷いの生存)をまねくものであるから界内の惑、三乗が共通して断たねばならないものであるから通惑という。<br><br> |
− | + | ||
[[くしゃしゅう|倶舎宗]]では'''見惑'''に88があるとし、見惑八十八使という。即ち見道で滅ぼされる根本煩悩は、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)とであるが、これをそれぞれ四諦にあて、三界にあてるとき、欲界に32、色界・無色界に各28、合わせて88となる。<br> | [[くしゃしゅう|倶舎宗]]では'''見惑'''に88があるとし、見惑八十八使という。即ち見道で滅ぼされる根本煩悩は、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)とであるが、これをそれぞれ四諦にあて、三界にあてるとき、欲界に32、色界・無色界に各28、合わせて88となる。<br> | ||
また'''修惑'''に81があるとし、修惑八十一品という。即ち修道で滅ぼされる根本煩悩は、欲界では貪・瞋・癡・慢、色界・無色界では貪・癡・慢の計10種であるが、これらをそれぞれ一括して、九地に配当し、さらにそれぞれ煩悩の強弱によって上上品から下下品までの9種にわけて81品とする。見惑の八十八使と修惑の一○種とを合わせて九十八随眠という。 | また'''修惑'''に81があるとし、修惑八十一品という。即ち修道で滅ぼされる根本煩悩は、欲界では貪・瞋・癡・慢、色界・無色界では貪・癡・慢の計10種であるが、これらをそれぞれ一括して、九地に配当し、さらにそれぞれ煩悩の強弱によって上上品から下下品までの9種にわけて81品とする。見惑の八十八使と修惑の一○種とを合わせて九十八随眠という。 | ||
[[ゆいしきしゅう|唯識宗]]では'''見惑'''を22、'''修惑'''を16と数え、合わせて128の根本煩悩を説く。 | [[ゆいしきしゅう|唯識宗]]では'''見惑'''を22、'''修惑'''を16と数え、合わせて128の根本煩悩を説く。 |
2018年8月5日 (日) 11:12時点における最新版
見惑
〔⇔修惑〕
惑とは心の迷い、惑いで、煩悩のこと。
見惑とは見道で滅ぼされる惑、修惑(思惑)とは修道で滅ぼされる惑を意味する。
倶舎では、四諦の理(仏教の真理)に迷う迷理の惑の見惑、現象的な事物に執われて迷う迷事の惑を修惑とする。
唯識では、邪師や邪教などの誘導により、または心におもい計って起こす後天的(分別起(ふんべっき))な煩悩を見惑、生まれるとともに自然に生じる先天的な(倶生起(くしょうき))煩悩を修惑とする。
天台宗ではこの見思(けんじ)の二惑は空観によって断たれる煩悩であるとして、塵沙(じんじゃ)の惑・無明(むみょう)の惑に対立させ、あわせて三惑という。そのうちで見思の惑はいずれも三界内のものに対して起こり、三界の生死(迷いの生存)をまねくものであるから界内の惑、三乗が共通して断たねばならないものであるから通惑という。
倶舎宗では見惑に88があるとし、見惑八十八使という。即ち見道で滅ぼされる根本煩悩は、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)とであるが、これをそれぞれ四諦にあて、三界にあてるとき、欲界に32、色界・無色界に各28、合わせて88となる。
また修惑に81があるとし、修惑八十一品という。即ち修道で滅ぼされる根本煩悩は、欲界では貪・瞋・癡・慢、色界・無色界では貪・癡・慢の計10種であるが、これらをそれぞれ一括して、九地に配当し、さらにそれぞれ煩悩の強弱によって上上品から下下品までの9種にわけて81品とする。見惑の八十八使と修惑の一○種とを合わせて九十八随眠という。
唯識宗では見惑を22、修惑を16と数え、合わせて128の根本煩悩を説く。