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源住地は不明。中央アジアで遊牧生活を営んでいたが、前2000年頃からその一部が南下して[[アフガニスタン]]に入り、[[カーブル]]渓谷を通って[[インダス]]川上流地方に侵入、[[いんだすぶんめい|インダス文明]]をつくった先住民に代り、またこの文明を部分的に取入れて定住農耕生活に入った。その一部は前1000年頃東の[[ガンジス]]川流域に侵入し、先住民を征服してこれと混血し、のちのインド文明発展の主役となった。[[ちゅうおうあじあ|中央アジア]]から[[イラン]]高原に侵入した一部はのちの[[ぺるしゃぶんめい|ペルシア文明]]を発展させた。形質的にはコーカソイド。 | 源住地は不明。中央アジアで遊牧生活を営んでいたが、前2000年頃からその一部が南下して[[アフガニスタン]]に入り、[[カーブル]]渓谷を通って[[インダス]]川上流地方に侵入、[[いんだすぶんめい|インダス文明]]をつくった先住民に代り、またこの文明を部分的に取入れて定住農耕生活に入った。その一部は前1000年頃東の[[ガンジス]]川流域に侵入し、先住民を征服してこれと混血し、のちのインド文明発展の主役となった。[[ちゅうおうあじあ|中央アジア]]から[[イラン]]高原に侵入した一部はのちの[[ぺるしゃぶんめい|ペルシア文明]]を発展させた。形質的にはコーカソイド。 | ||
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+ | アーリア人のインド侵入アーリア人の一部が西トルキスタンの草原地帯から東南に移動しはじめ、アフガニスターンを経てヒンドゥークシュ山脈を越え、インダス河上流の[[パンジャーブ|五河地方]]に達したのは紀元前1500年前後と推定されている。<br> | ||
+ | 彼らはすぐれた武器をもち、職闘に長け、先住民族であったドラヴィダ Dravida 人やムンダ Muṇḍa 人を征服して、自らの支配下に隷属させた。五河地方に定住したアーリア人は、家父長制の大家族を基本単位として、氏族・部族を形成し、主として牧畜にたずさわるとともに農耕も行なった。 | ||
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+ | 紀元前1000年ごろから、アーリア人は東に移住しはじめ、ヤムナー河とガンガー河の中間地帯に進出した。この地方の恵まれた土地・気候条件のもとに、彼らは農耕に従事し、多数の小村落を単位とする氏族制農村社会を成立させた。<br> | ||
+ | 社会階級は固定化し、職業は世襲となり、長期にわたってインド社会を律する[[カースト|四姓]](婆羅門 brāhmaṇa・王族 kṣatriya・庶民 vaiśya・隷民 śũdra の4階級)の制度が次第に確立された。 |
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アーリア人
āryan
インド・ヨーロッパ語系諸族と同義に用いられることもあるが、正確には、インド・ヨーロッパ語系諸族の一派でインドとイランに定住した民族のことを指す。
アーリアとはサンスクリット語の「高貴」という意味からきている。現在ではアーリアとはインド・アーリア語族の意味で言語についてのみ使用される。
源住地は不明。中央アジアで遊牧生活を営んでいたが、前2000年頃からその一部が南下してアフガニスタンに入り、カーブル渓谷を通ってインダス川上流地方に侵入、インダス文明をつくった先住民に代り、またこの文明を部分的に取入れて定住農耕生活に入った。その一部は前1000年頃東のガンジス川流域に侵入し、先住民を征服してこれと混血し、のちのインド文明発展の主役となった。中央アジアからイラン高原に侵入した一部はのちのペルシア文明を発展させた。形質的にはコーカソイド。
インド侵入
アーリア人のインド侵入アーリア人の一部が西トルキスタンの草原地帯から東南に移動しはじめ、アフガニスターンを経てヒンドゥークシュ山脈を越え、インダス河上流の五河地方に達したのは紀元前1500年前後と推定されている。
彼らはすぐれた武器をもち、職闘に長け、先住民族であったドラヴィダ Dravida 人やムンダ Muṇḍa 人を征服して、自らの支配下に隷属させた。五河地方に定住したアーリア人は、家父長制の大家族を基本単位として、氏族・部族を形成し、主として牧畜にたずさわるとともに農耕も行なった。
東漸
紀元前1000年ごろから、アーリア人は東に移住しはじめ、ヤムナー河とガンガー河の中間地帯に進出した。この地方の恵まれた土地・気候条件のもとに、彼らは農耕に従事し、多数の小村落を単位とする氏族制農村社会を成立させた。
社会階級は固定化し、職業は世襲となり、長期にわたってインド社会を律する四姓(婆羅門 brāhmaṇa・王族 kṣatriya・庶民 vaiśya・隷民 śũdra の4階級)の制度が次第に確立された。