操作

「かくかん」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(ページの作成:「=覚観= <big>vitarka वितर्क :vicāra विचार</big> (S)  「覚観」は旧訳であり、新訳は尋伺である。<br>  覚は...」)
 
(覚観)
 
1行目: 1行目:
 
=覚観=
 
=覚観=
<big>vitarka वितर्क :vicāra विचार</big> (S)
+
<big>vitarka-vicāra वितर्क विचार</big> (P)
  
 
 「覚観」は旧訳であり、新訳は[[じんし|尋伺]]である。<br>
 
 「覚観」は旧訳であり、新訳は[[じんし|尋伺]]である。<br>
 +
 「覚知と観察」のことであり、初期経典ではしばしばセットで出てくる。
 +
 
 覚は物事を推しはかる心の粗いはたらき、観は細かいはたらき、の意で、ともに禅定の心をさまたげる。心の粗いはたらきや細かいはたらき。粗い心と細かい心。〔維摩経、T14. 540a〕〔往生要集、T84. 67a;73b〕
 
 覚は物事を推しはかる心の粗いはたらき、観は細かいはたらき、の意で、ともに禅定の心をさまたげる。心の粗いはたらきや細かいはたらき。粗い心と細かい心。〔維摩経、T14. 540a〕〔往生要集、T84. 67a;73b〕
  
 
 「覚」と「観」は言語を発する因である。したがって、覚・観の心を離れると言語もないという。「覚観地」(tārkika)
 
 「覚」と「観」は言語を発する因である。したがって、覚・観の心を離れると言語もないという。「覚観地」(tārkika)

2024年3月24日 (日) 15:27時点における最新版

覚観

vitarka-vicāra वितर्क विचार (P)

 「覚観」は旧訳であり、新訳は尋伺である。
 「覚知と観察」のことであり、初期経典ではしばしばセットで出てくる。

 覚は物事を推しはかる心の粗いはたらき、観は細かいはたらき、の意で、ともに禅定の心をさまたげる。心の粗いはたらきや細かいはたらき。粗い心と細かい心。〔維摩経、T14. 540a〕〔往生要集、T84. 67a;73b〕

 「覚」と「観」は言語を発する因である。したがって、覚・観の心を離れると言語もないという。「覚観地」(tārkika)