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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(月支)
 
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 月氏族は、元来は中央アジアの遊牧民であったが、AD.25年ころにクシャーナ族の族長クジューラ・カドフィセース(Kujūla Kadphisēs、丘就郤)が4つの部族を支配し、AD.60年ころより後に西北インドを攻略した。<br>
 
 月氏族は、元来は中央アジアの遊牧民であったが、AD.25年ころにクシャーナ族の族長クジューラ・カドフィセース(Kujūla Kadphisēs、丘就郤)が4つの部族を支配し、AD.60年ころより後に西北インドを攻略した。<br>
 
 彼の子ウェーマ・カドフィセース(Wema Kadphises)はその帝国を拡大した。その後[[カニシカ]]王(Kaniṣka、迦膩色迦、AD.129 - 152在位)がインドに侵入し、北方インド全体を支配したのみならず、その勢力は中央アジア・イランにまで及び、[[アショーカ]]王以来の一大帝国が建設され、彼の王朝は約3世紀中葉まで続いた。
 
 彼の子ウェーマ・カドフィセース(Wema Kadphises)はその帝国を拡大した。その後[[カニシカ]]王(Kaniṣka、迦膩色迦、AD.129 - 152在位)がインドに侵入し、北方インド全体を支配したのみならず、その勢力は中央アジア・イランにまで及び、[[アショーカ]]王以来の一大帝国が建設され、彼の王朝は約3世紀中葉まで続いた。
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 この帝国はその領土が広大であったのみならず、シナ・ローマとも政治的・経済的・文化的交渉があり、また領土内の西北地方に残存したギリシア文化の影響を受けていたために、東西の文化を包容・融合し、種々なる系統の文化的要素を併在せしめている。<br>
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 経済的方面ではウェーマ・カドフィセースの経済政策の成功が統一国家形成を可能ならしめたらしい。金貨が新たに大規模に鋳造されたが、それはローマの金が大量にインドに流入したことに起因すると考えられる。かれの時代にローマの貨幣の基準単位がインドにも採用されたが、クシャーナ帝国の財力はローマとの貿易によって蓄積されたことも大きかったらしい。<br>
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 クシャーナ族の生活様式は中央アジア的なものを多く保持しているとともに、ギリシア的な要素をも伝え、土着するにつれてインド古来の習慣・風俗に同化して行った。

2024年10月8日 (火) 14:31時点における最新版

月支

 月氏族は、元来は中央アジアの遊牧民であったが、AD.25年ころにクシャーナ族の族長クジューラ・カドフィセース(Kujūla Kadphisēs、丘就郤)が4つの部族を支配し、AD.60年ころより後に西北インドを攻略した。
 彼の子ウェーマ・カドフィセース(Wema Kadphises)はその帝国を拡大した。その後カニシカ王(Kaniṣka、迦膩色迦、AD.129 - 152在位)がインドに侵入し、北方インド全体を支配したのみならず、その勢力は中央アジア・イランにまで及び、アショーカ王以来の一大帝国が建設され、彼の王朝は約3世紀中葉まで続いた。

 この帝国はその領土が広大であったのみならず、シナ・ローマとも政治的・経済的・文化的交渉があり、また領土内の西北地方に残存したギリシア文化の影響を受けていたために、東西の文化を包容・融合し、種々なる系統の文化的要素を併在せしめている。
 経済的方面ではウェーマ・カドフィセースの経済政策の成功が統一国家形成を可能ならしめたらしい。金貨が新たに大規模に鋳造されたが、それはローマの金が大量にインドに流入したことに起因すると考えられる。かれの時代にローマの貨幣の基準単位がインドにも採用されたが、クシャーナ帝国の財力はローマとの貿易によって蓄積されたことも大きかったらしい。
 クシャーナ族の生活様式は中央アジア的なものを多く保持しているとともに、ギリシア的な要素をも伝え、土着するにつれてインド古来の習慣・風俗に同化して行った。