「ぜんじょう」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
(→禅定) |
(→禅定) |
||
3行目: | 3行目: | ||
[[サンスクリット]]語のdhyānaの音写である「[[ぜん|禅]]」と、その意訳した「[[じょう|定]]」の複合語。[[さんまい|三昧]]と同義語。<br> | [[サンスクリット]]語のdhyānaの音写である「[[ぜん|禅]]」と、その意訳した「[[じょう|定]]」の複合語。[[さんまい|三昧]]と同義語。<br> | ||
− | 「[[しゆい|思惟]]」の語が全人格的思惟として用いられている場合がある。その原語はサンスクリット語で'''dhyāna'''であり、パーリ語で'''jhāna'''である。その'''jhāna'''が、中国へ入ると、最後のaが落ちて'''jhān'''となり、それが「禅」という字に音訳され、あるいはまた、「定」という字を付して禅定ともいわれた。禅定の、禅は音訳であり、定(さだまる)は意訳である。 | + | 「[[しゆい|思惟]]」の語が全人格的思惟として用いられている場合がある。その原語はサンスクリット語で'''dhyāna'''であり、パーリ語で'''jhāna'''である。その'''jhāna'''が、中国へ入ると、最後のaが落ちて'''jhān'''となり、それが「禅」という字に音訳され、あるいはまた、「定」という字を付して禅定ともいわれた。禅定の、禅は音訳であり、定(さだまる)は意訳である。<br> |
+ | さらに、サンスクリット語<big>dhyāna</big>は、語根√<big>dhyai</big>(冥想する、黙想する)から転化したもので、冥想、黙想の意味であり、英語ではmaditation、contemplationなどと訳されている。漢訳では、思惟の外に、その意味をとって「静慮」とも訳されている。「静かに慮る」というのである。 | ||
心を統一して[[めいそう|瞑想]]し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態。 | 心を統一して[[めいそう|瞑想]]し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態。 |
2025年2月15日 (土) 16:18時点における版
禅定
dhyāna ध्यान (S)、jhāna झान (P)
サンスクリット語のdhyānaの音写である「禅」と、その意訳した「定」の複合語。三昧と同義語。
「思惟」の語が全人格的思惟として用いられている場合がある。その原語はサンスクリット語でdhyānaであり、パーリ語でjhānaである。そのjhānaが、中国へ入ると、最後のaが落ちてjhānとなり、それが「禅」という字に音訳され、あるいはまた、「定」という字を付して禅定ともいわれた。禅定の、禅は音訳であり、定(さだまる)は意訳である。
さらに、サンスクリット語dhyānaは、語根√dhyai(冥想する、黙想する)から転化したもので、冥想、黙想の意味であり、英語ではmaditation、contemplationなどと訳されている。漢訳では、思惟の外に、その意味をとって「静慮」とも訳されている。「静かに慮る」というのである。
心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態。
- 中国では、この禅定による修行に特化した禅宗が成立した。後に日本に入り、武士の主要徳目となり流行した。