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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(道綽)
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出家者、在家者のために''[[かんむりょうじゅきょう|観無量寿経]]''を200回以上講義。亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。数珠を持って、念仏を口で称えることをすする。<br>
 
出家者、在家者のために''[[かんむりょうじゅきょう|観無量寿経]]''を200回以上講義。亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。数珠を持って、念仏を口で称えることをすする。<br>
 
著書に''[[あんらくしゅう|安楽集]]'' 2巻がある。
 
著書に''[[あんらくしゅう|安楽集]]'' 2巻がある。
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 去る貞観十九年(645)乙巳の歳の四月二十四日に、道綽法師は出家者にも在家者にも皆別れを告げた。晋陽・太原・汶水の三県の一門の人々の別れを告げる者が絶えず、その数は数えることが難しいほどであった。二十七日になって、玄中寺(玄忠寺)で命を終えられた。臨終の時には、白雲が西の方からやって来て、三筋の白い光に変わった。その光は道綽法師の僧房の中を照らし出し、突き抜け終わったときにお亡くなりになった。そののち、茶毘に付して埋葬しようとすると、また空中に三筋の五色の光が現れて、太陽の周りをめぐり、一回りすると消えてしまった。そして、今度は紫雲が現れて陵の上をみたび通り過ぎていった。遺された弟子たちは、みなこの奇瑞を見て、経典に書かれているとおりであると思い、また諸仏の慈善の力が衆生にこのような奇瑞を見せるのだと考えた。『華厳経』の偈に説かれる所によると、光が放たれるのは、名を明らかにし仏を見ることである。この光は、命が終わることを覚悟した者が念仏三昧して必ず仏に見え、命終わったのちは仏の前に往生する証である。〔迦才『浄土論』下〕

2022年10月10日 (月) 15:25時点における版

道綽

どうしゃく、Dao-chuo 562年-645年

并州の出身。中国浄土教の祖師。浄土宗五祖の第二、浄土真宗七高僧の第四。西河禅師とも呼ぶ。
14歳のときに出家し、涅槃経に精通。のち慧瓚(えさん)に師事。40歳のとき玄中寺曇鸞の碑文を見て感じ、同寺で修行。
出家者、在家者のために観無量寿経を200回以上講義。亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。数珠を持って、念仏を口で称えることをすする。
著書に安楽集 2巻がある。

 去る貞観十九年(645)乙巳の歳の四月二十四日に、道綽法師は出家者にも在家者にも皆別れを告げた。晋陽・太原・汶水の三県の一門の人々の別れを告げる者が絶えず、その数は数えることが難しいほどであった。二十七日になって、玄中寺(玄忠寺)で命を終えられた。臨終の時には、白雲が西の方からやって来て、三筋の白い光に変わった。その光は道綽法師の僧房の中を照らし出し、突き抜け終わったときにお亡くなりになった。そののち、茶毘に付して埋葬しようとすると、また空中に三筋の五色の光が現れて、太陽の周りをめぐり、一回りすると消えてしまった。そして、今度は紫雲が現れて陵の上をみたび通り過ぎていった。遺された弟子たちは、みなこの奇瑞を見て、経典に書かれているとおりであると思い、また諸仏の慈善の力が衆生にこのような奇瑞を見せるのだと考えた。『華厳経』の偈に説かれる所によると、光が放たれるのは、名を明らかにし仏を見ることである。この光は、命が終わることを覚悟した者が念仏三昧して必ず仏に見え、命終わったのちは仏の前に往生する証である。〔迦才『浄土論』下〕