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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(唯心偈)
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旧『[[けごんきょう|華厳経]]』第十一、夜摩天宮菩薩説偈品に如来林菩薩が説いた偈のこと。
 
旧『[[けごんきょう|華厳経]]』第十一、夜摩天宮菩薩説偈品に如来林菩薩が説いた偈のこと。
  
:心は工画師の如し。種々の[[ごうん|五陰]]を造り、一切世間中に、法を造らざること無し。心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り。心・仏及び衆生、是の三、無差別なり。
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: 心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別
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:心は工画師の如し。種々の[[ごうん|五陰]]を造り、一切世間中に、法を造らざること無し。心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り。心・仏及び衆生、是の三、無差別なり。    〔T9, p.465c〕
  
 
 [[けごんしゅう|華厳宗]]に於いては、唯心縁起の至極を顕したものであるとする。心は総、仏と衆生は別であり、心が一切万有を総該するから、迷えば衆生となり、悟れば仏となる。心の外に衆生なく、心の外に仏なし、という。
 
 [[けごんしゅう|華厳宗]]に於いては、唯心縁起の至極を顕したものであるとする。心は総、仏と衆生は別であり、心が一切万有を総該するから、迷えば衆生となり、悟れば仏となる。心の外に衆生なく、心の外に仏なし、という。
  
 
 [[てんだいしゅう|天台宗]]では、この偈で三法妙を立てる。山外の解は心は能造の理であって、仏および衆生は所造の理であるとして、華厳宗と同じに解釈する。しかし、[[さんげ|山家]]の解釈は、心仏衆生の三法それぞれ事と理を具して能造所造となって互具互融する実相の意を顕した偈であるとする。
 
 [[てんだいしゅう|天台宗]]では、この偈で三法妙を立てる。山外の解は心は能造の理であって、仏および衆生は所造の理であるとして、華厳宗と同じに解釈する。しかし、[[さんげ|山家]]の解釈は、心仏衆生の三法それぞれ事と理を具して能造所造となって互具互融する実相の意を顕した偈であるとする。

2011年1月20日 (木) 06:22時点における版

唯心偈

旧『華厳経』第十一、夜摩天宮菩薩説偈品に如来林菩薩が説いた偈のこと。

心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別
心は工画師の如し。種々の五陰を造り、一切世間中に、法を造らざること無し。心の如く仏も亦爾り。仏の如く衆生も然り。心・仏及び衆生、是の三、無差別なり。    〔T9, p.465c〕

 華厳宗に於いては、唯心縁起の至極を顕したものであるとする。心は総、仏と衆生は別であり、心が一切万有を総該するから、迷えば衆生となり、悟れば仏となる。心の外に衆生なく、心の外に仏なし、という。

 天台宗では、この偈で三法妙を立てる。山外の解は心は能造の理であって、仏および衆生は所造の理であるとして、華厳宗と同じに解釈する。しかし、山家の解釈は、心仏衆生の三法それぞれ事と理を具して能造所造となって互具互融する実相の意を顕した偈であるとする。