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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 空真如とは、真如には[[ぼんのう|煩悩]]は[[くう|空]]であるという意味。不空真如とは、真如には[[じょうぶつ|成佛]]の無量の[[くどく|功徳]]が具っていることをいう。
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 空真如とは、真如においては[[ぼんのう|煩悩]]は[[くう|空]]であるという意味。不空真如とは、真如には[[じょうぶつ|成佛]]の無量の[[くどく|功徳]]が具っていることをいう。
  
 
 [[ぼんぶ|凡夫]]は空真如に達しないから、自己に煩悩があると見る。しかし煩悩が「有る」と見るのは迷いの立場である。本来は、煩悩は実体のないものである。<br>
 
 [[ぼんぶ|凡夫]]は空真如に達しないから、自己に煩悩があると見る。しかし煩悩が「有る」と見るのは迷いの立場である。本来は、煩悩は実体のないものである。<br>
 
 たとえば、騙されている限りは、騙されている内容が真実であると思っている。騙されている内容が心理的には実有である。しかし騙されていることに気がつけば、その刹那にその内容は消失する。迷っている限りは、煩悩は実在し、それによって苦しむが、迷いを離れれば、煩悩は消失し苦から解脱する。<br>
 
 たとえば、騙されている限りは、騙されている内容が真実であると思っている。騙されている内容が心理的には実有である。しかし騙されていることに気がつけば、その刹那にその内容は消失する。迷っている限りは、煩悩は実在し、それによって苦しむが、迷いを離れれば、煩悩は消失し苦から解脱する。<br>
 もし煩悩に実体があれば、苦からの解脱は不可能になる。その意味で煩悩は「有」であると共に「無」である。その点を「第一義空は真妄を該ねて寥寥たり」と表現した。真妄は、真如と妄法(煩悩)のことであり、第一義空においては両者の差別はなくなり、寂静である。寥寥とは空寂を示す。
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 もし煩悩に実体があれば、苦からの解脱は不可能になる。その意味で煩悩は「有」であると共に「無」である。その点を「'''第一義空は真妄を該ねて寥寥たり'''」と表現した。真妄は、真如と妄法(煩悩)のことであり、第一義空においては両者の差別はなくなり、寂静である。寥寥とは空寂を示す。

2020年5月20日 (水) 11:46時点における最新版

第一義空

parman ārtha-śūnyatā, parmārtha-śūnyatā (S)

 第一義空は空真如。真如には空真如と不空真如の2面がある。

 空真如とは、真如においては煩悩であるという意味。不空真如とは、真如には成佛の無量の功徳が具っていることをいう。

 凡夫は空真如に達しないから、自己に煩悩があると見る。しかし煩悩が「有る」と見るのは迷いの立場である。本来は、煩悩は実体のないものである。
 たとえば、騙されている限りは、騙されている内容が真実であると思っている。騙されている内容が心理的には実有である。しかし騙されていることに気がつけば、その刹那にその内容は消失する。迷っている限りは、煩悩は実在し、それによって苦しむが、迷いを離れれば、煩悩は消失し苦から解脱する。
 もし煩悩に実体があれば、苦からの解脱は不可能になる。その意味で煩悩は「有」であると共に「無」である。その点を「第一義空は真妄を該ねて寥寥たり」と表現した。真妄は、真如と妄法(煩悩)のことであり、第一義空においては両者の差別はなくなり、寂静である。寥寥とは空寂を示す。