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[[ぼんぶ|凡夫]]は空真如に達しないから、自己に煩悩があると見る。しかし煩悩が「有る」と見るのは迷いの立場である。本来は、煩悩は実体のないものである。<br> | [[ぼんぶ|凡夫]]は空真如に達しないから、自己に煩悩があると見る。しかし煩悩が「有る」と見るのは迷いの立場である。本来は、煩悩は実体のないものである。<br> | ||
たとえば、騙されている限りは、騙されている内容が真実であると思っている。騙されている内容が心理的には実有である。しかし騙されていることに気がつけば、その刹那にその内容は消失する。迷っている限りは、煩悩は実在し、それによって苦しむが、迷いを離れれば、煩悩は消失し苦から解脱する。<br> | たとえば、騙されている限りは、騙されている内容が真実であると思っている。騙されている内容が心理的には実有である。しかし騙されていることに気がつけば、その刹那にその内容は消失する。迷っている限りは、煩悩は実在し、それによって苦しむが、迷いを離れれば、煩悩は消失し苦から解脱する。<br> | ||
− | + | もし煩悩に実体があれば、苦からの解脱は不可能になる。その意味で煩悩は「有」であると共に「無」である。その点を「'''第一義空は真妄を該ねて寥寥たり'''」と表現した。真妄は、真如と妄法(煩悩)のことであり、第一義空においては両者の差別はなくなり、寂静である。寥寥とは空寂を示す。 |
2020年5月20日 (水) 11:46時点における最新版
第一義空
parman ārtha-śūnyatā, parmārtha-śūnyatā (S)
第一義空は空真如。真如には空真如と不空真如の2面がある。
空真如とは、真如においては煩悩は空であるという意味。不空真如とは、真如には成佛の無量の功徳が具っていることをいう。
凡夫は空真如に達しないから、自己に煩悩があると見る。しかし煩悩が「有る」と見るのは迷いの立場である。本来は、煩悩は実体のないものである。
たとえば、騙されている限りは、騙されている内容が真実であると思っている。騙されている内容が心理的には実有である。しかし騙されていることに気がつけば、その刹那にその内容は消失する。迷っている限りは、煩悩は実在し、それによって苦しむが、迷いを離れれば、煩悩は消失し苦から解脱する。
もし煩悩に実体があれば、苦からの解脱は不可能になる。その意味で煩悩は「有」であると共に「無」である。その点を「第一義空は真妄を該ねて寥寥たり」と表現した。真妄は、真如と妄法(煩悩)のことであり、第一義空においては両者の差別はなくなり、寂静である。寥寥とは空寂を示す。