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− | + | 中国、杭州の靈芝寺の律師、字は湛然。初めに東蔵の惠鑑について戒律を学び、後に神悟律師に従って天台の教觀を講じる。また、広慈の才法仏について菩薩戒を受け、南山の律宗を究めた。<br> 常にボロを着て、杖と鉢とを以て市で乞食をしていた。<br> | |
− | + | 晩年、靈芝寺に三十年住んだ。自ら安忍子と号し、普賢行願品を読誦していた。宋の緻宗政和6年9月1日、壽六十九で結跏趺坐したまま遷化した。 | |
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講説すると聴衆は常に數百集まった。著書に『資持濟縁』『彌陀義疏』『刪定律儀本』などがある。 | 講説すると聴衆は常に數百集まった。著書に『資持濟縁』『彌陀義疏』『刪定律儀本』などがある。 | ||
:『[[きょうぎょうしんしょう|教行信証]]』行巻に、『弥陀経義』として引用されている。 | :『[[きょうぎょうしんしょう|教行信証]]』行巻に、『弥陀経義』として引用されている。 |
2012年1月25日 (水) 12:21時点における最新版
元照
中国、杭州の靈芝寺の律師、字は湛然。初めに東蔵の惠鑑について戒律を学び、後に神悟律師に従って天台の教觀を講じる。また、広慈の才法仏について菩薩戒を受け、南山の律宗を究めた。
常にボロを着て、杖と鉢とを以て市で乞食をしていた。
晩年、靈芝寺に三十年住んだ。自ら安忍子と号し、普賢行願品を読誦していた。宋の緻宗政和6年9月1日、壽六十九で結跏趺坐したまま遷化した。
講説すると聴衆は常に數百集まった。著書に『資持濟縁』『彌陀義疏』『刪定律儀本』などがある。
- 『教行信証』行巻に、『弥陀経義』として引用されている。