「あいじゃく」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
(ページの作成:「=愛着・愛著= 1.<big>taṇhā</big> (P)、<big>tṛṣṇā</big> (S)<br> 渇愛と同じ。〔雑一阿含経17、T2-631c〕 2.<big>...」) |
(→愛着・愛著) |
||
11行目: | 11行目: | ||
4.<big>upaya</big> (S)<br> | 4.<big>upaya</big> (S)<br> | ||
たより近づくこと。〔義足経 T4-177c〕 | たより近づくこと。〔義足経 T4-177c〕 | ||
+ | |||
+ | 5.<big>ālaya</big> (P)<br> | ||
+ | : まことに、私が証得したこの真理(dhamma,法)は、深遠で、見がたく、知りがたく、寂滅しており、妙勝であり、考察しがたく、微妙であり、智者のみが知り得るものである。<br> | ||
+ | : まことにこの世間の人々は、愛著(ālaya)を楽しみ、愛著を好み、愛著を喜んでいる。愛著を楽しみ、愛著を好み、愛著を喜んでいる世間の人々には、これを縁として〔かれが成立する〕ということ(idappaccayatā,此縁性)と縁起(iccasamuppāda)と、これらの道理は見がたい。また、すべての(sabba)記憶や意志などという心の作用が鎮まること、すべての執著を捨て去ること、渇愛の消滅、貪欲を離れること、〔苦である輪廻的生存(bhava,有)の〕止滅、究極の安楽(nibbāna,涅槃)という、この道理も見がたい。だから私が真理を説いたとしても、他の人々が私の言うことを理解できないならば、この私には疲労(kilama)があるのみである。この私には憂い(vihesā)があるのみである。〔Mahāvagga、釈尊がさとった後〕 |
2023年8月18日 (金) 15:40時点における版
愛着・愛著
1.taṇhā (P)、tṛṣṇā (S)
渇愛と同じ。〔雑一阿含経17、T2-631c〕
2.tṛṣṇā; vyavasita (S)
貪りの心をもって、ものにとらわれること。執着すること。
3.upaiti (S)
領受ということ。〔有部律破僧事7、T24-136a〕
4.upaya (S)
たより近づくこと。〔義足経 T4-177c〕
5.ālaya (P)
- まことに、私が証得したこの真理(dhamma,法)は、深遠で、見がたく、知りがたく、寂滅しており、妙勝であり、考察しがたく、微妙であり、智者のみが知り得るものである。
- まことにこの世間の人々は、愛著(ālaya)を楽しみ、愛著を好み、愛著を喜んでいる。愛著を楽しみ、愛著を好み、愛著を喜んでいる世間の人々には、これを縁として〔かれが成立する〕ということ(idappaccayatā,此縁性)と縁起(iccasamuppāda)と、これらの道理は見がたい。また、すべての(sabba)記憶や意志などという心の作用が鎮まること、すべての執著を捨て去ること、渇愛の消滅、貪欲を離れること、〔苦である輪廻的生存(bhava,有)の〕止滅、究極の安楽(nibbāna,涅槃)という、この道理も見がたい。だから私が真理を説いたとしても、他の人々が私の言うことを理解できないならば、この私には疲労(kilama)があるのみである。この私には憂い(vihesā)があるのみである。〔Mahāvagga、釈尊がさとった後〕