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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(仏陀の没年)
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===仏陀の没年===
 
===仏陀の没年===
 
 仏陀の没年については、カシュミールの説一切有部の Sarvāstivādin, Vaibhāṣka の所伝を根拠にして計算した紀元前383年の説や、セイロン上座部 Theravāda の所伝をもとにした紀元前485年の説がある。その他前478年など、数種の有力な異説が現代の諸学者の間にあって、学問的にはまだ決着をみていない。
 
 仏陀の没年については、カシュミールの説一切有部の Sarvāstivādin, Vaibhāṣka の所伝を根拠にして計算した紀元前383年の説や、セイロン上座部 Theravāda の所伝をもとにした紀元前485年の説がある。その他前478年など、数種の有力な異説が現代の諸学者の間にあって、学問的にはまだ決着をみていない。
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===第1回[[けつじゅう|結集]]===
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 仏陀の入滅した年に、ラージャグリハ(王舎城)において、マハー・カーシャパ Mahā-kāśyapa(大[[かしょう|迦葉]])の司会による500人の弟子たちの会議が行なわれた。ウパーリ Upāli (優波離)が戒律を、アーナンダ Ānanda (阿難陀)が教法を、それぞれ聞きおぼえていたままに暗誦し、それらを参集者が承認してその教義を確認したという。
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==紀元前4~3世紀==
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===アレキサンドロス大王のインド侵入===
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 紀元前327年に、アレクサンドロス大王がアケメネス帝国の征服を完遂する目的でインドに侵入した。彼はインダス河畔にまで到達したが、そこから西方に兵を引き返した。しかし、その結果、イラン高原から中央アジアの一部に数多くのギリシア人植民地が出現した。
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===マウリヤ王朝とアショーカ王===
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 マガダでは、仏陀の時代以後も、大国による小国併合が進行したが、やがてハリヤンカ、シャイシュナーガ、ナンダの強力な諸王朝が続々とあらわれた。<br>
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 紀元前317年ころにチャンドラグプタがナンダ王朝を倒してマウリャ王朝 Maurya を創立した。彼はギリシア人の勢力を西方に遠く駆逐して北インドを平定し、パータリプトラ(現在のパトナ市)に都を定めた。この王朝は支配圏をさらに拡張し、チャンドラグブタの孫のアショー力王 Aśoka(前268即位)の時代には、インドの南端近くからヒマラヤまでのインド準大陸の大部分と、西はアフガニスタンからアラコシアに至る版図を有し、インド史上最大の帝国となった。アショーカ王はその偉業の記録とともに道徳的訓戒を法勅として発布し、それを石柱や磨崖に刻ませた。彼はまた、宗教を奨励し、とくに仏教を重んじ、自ら仏跡を巡拝したり、インド内外の各地に仏教の伝道師を派適したりした。セイロンにはマヒンダ Mahinda がおもむくが、これが南方仏数の発端となった。
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===第2回結集===
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 仏陀の没後110年(一説に100年)にして、ヴァイシャーリー(現在のビハール州北部)に700人の比丘が集まり、第2回の僧団会議を催した。<br>
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 このとき、進歩的な多数派が、時代と地域に適応するよう戒律の穏健な解釈十項目を提案したが、長老たちがこれに反対したために、以後仏教教団は、進歩的な大衆部 Mahāsṃghika と保守的な上座部 Sthavira-vāda, Theravāda とに分裂した。分裂の原因としては、上座部の理想とする聖者阿羅漢 arhat の人格に対する疑惑をはじめとする教理的な見解の相違も含まれていたと思われる。この教団の分裂がアショー力王の治下においてか、それ以後に起こったかは判明していない。
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===モッガリプッタ・ティッサ===
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 アショーカ王の仏教教団に対する供養をめあてに、資格のない者たちが教団に多数潜入したために混乱が起きた。王に招かれたモッガリプッタ・ティッサ Moggaliputta Tissa は上座部以外の非正統的な比丘を追放し、『論事』Kathā-vatthu を著わして正統説を論定した。
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==紀元前2~紀元後1世紀==

2024年11月2日 (土) 16:10時点における版

インド仏教史

紀元前5~4世紀

都市と王権と自由思想

 インドにおけるアーリア人の東進が一段落し、彼らがガンガー河の肥沃な平原に定住したのちは、経済生活が向上し、多数の都市が生まれた。これらの都市を中心とした群小国家は次第に強力な王国に併合され、紀元前5世紀ころにはコーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサの4大国が栄えた。これらの国では壮大な都市が営まれ、王族の権力と商工業者の実力が増大し、これまでのバラモン(司祭階級)を最上層とする階級制度はゆらぎ、ヴェーダ文化の権威も疑われて、自由思想家が輩出するに至った。懐疑論、唯物論、快楽主義なども勢いを得た。また、出家遊行しながら禅定を修め、真理の探究に努める人、沙門 śramaṇa も多くなった。ジャイナ教や仏教の開祖もそのような沙門のひとりである。

ゴータマ・ブッダ

 ヒマラヤ山麓に小国を成し、カピラ城に都していたシャーキャ族 Śākya の王子シッダールタ Siddhārtha は、ルンビニー園(現在のネパールのルンミンディー)に生まれた。成長後、ヤショーダラー Yaśodharā を妃とし、一子ラーフラ Rāhula をもうけた。
 しかし、人生に対して懐疑をいだき、29歳(一説に19歳)で出家し、諸国を遍歴してヨーガや苦行に努めたが、それらに満足せず、ついにブッダガヤー(現在のボードガヤ)の菩提樹下に瞑想して最高の境地に達し、覚めたる者、仏陀 buddha となった。そして、鹿野苑(現在のサルナート)での説法をはじめとして伝道を開始した。
 現在のビハール、ウッタル・プラデーシュの2州にあたる地域を主として教化活動を行ない、短期間のうちに多くの弟子と在家信者の帰依を得た。
 45年間にわたる伝道ののち、クシナガラ(現在のカシア)において80歳の命を閉じた。遺体は火葬にされ、遺骨は信者の手によって分骨され、8箇所に建てられたストゥーパ(塔)に納められた。

仏陀の没年

 仏陀の没年については、カシュミールの説一切有部の Sarvāstivādin, Vaibhāṣka の所伝を根拠にして計算した紀元前383年の説や、セイロン上座部 Theravāda の所伝をもとにした紀元前485年の説がある。その他前478年など、数種の有力な異説が現代の諸学者の間にあって、学問的にはまだ決着をみていない。

第1回結集

 仏陀の入滅した年に、ラージャグリハ(王舎城)において、マハー・カーシャパ Mahā-kāśyapa(大迦葉)の司会による500人の弟子たちの会議が行なわれた。ウパーリ Upāli (優波離)が戒律を、アーナンダ Ānanda (阿難陀)が教法を、それぞれ聞きおぼえていたままに暗誦し、それらを参集者が承認してその教義を確認したという。

紀元前4~3世紀

アレキサンドロス大王のインド侵入

 紀元前327年に、アレクサンドロス大王がアケメネス帝国の征服を完遂する目的でインドに侵入した。彼はインダス河畔にまで到達したが、そこから西方に兵を引き返した。しかし、その結果、イラン高原から中央アジアの一部に数多くのギリシア人植民地が出現した。

マウリヤ王朝とアショーカ王

 マガダでは、仏陀の時代以後も、大国による小国併合が進行したが、やがてハリヤンカ、シャイシュナーガ、ナンダの強力な諸王朝が続々とあらわれた。
 紀元前317年ころにチャンドラグプタがナンダ王朝を倒してマウリャ王朝 Maurya を創立した。彼はギリシア人の勢力を西方に遠く駆逐して北インドを平定し、パータリプトラ(現在のパトナ市)に都を定めた。この王朝は支配圏をさらに拡張し、チャンドラグブタの孫のアショー力王 Aśoka(前268即位)の時代には、インドの南端近くからヒマラヤまでのインド準大陸の大部分と、西はアフガニスタンからアラコシアに至る版図を有し、インド史上最大の帝国となった。アショーカ王はその偉業の記録とともに道徳的訓戒を法勅として発布し、それを石柱や磨崖に刻ませた。彼はまた、宗教を奨励し、とくに仏教を重んじ、自ら仏跡を巡拝したり、インド内外の各地に仏教の伝道師を派適したりした。セイロンにはマヒンダ Mahinda がおもむくが、これが南方仏数の発端となった。

第2回結集

 仏陀の没後110年(一説に100年)にして、ヴァイシャーリー(現在のビハール州北部)に700人の比丘が集まり、第2回の僧団会議を催した。
 このとき、進歩的な多数派が、時代と地域に適応するよう戒律の穏健な解釈十項目を提案したが、長老たちがこれに反対したために、以後仏教教団は、進歩的な大衆部 Mahāsṃghika と保守的な上座部 Sthavira-vāda, Theravāda とに分裂した。分裂の原因としては、上座部の理想とする聖者阿羅漢 arhat の人格に対する疑惑をはじめとする教理的な見解の相違も含まれていたと思われる。この教団の分裂がアショー力王の治下においてか、それ以後に起こったかは判明していない。

モッガリプッタ・ティッサ

 アショーカ王の仏教教団に対する供養をめあてに、資格のない者たちが教団に多数潜入したために混乱が起きた。王に招かれたモッガリプッタ・ティッサ Moggaliputta Tissa は上座部以外の非正統的な比丘を追放し、『論事』Kathā-vatthu を著わして正統説を論定した。

紀元前2~紀元後1世紀