けつじゅう
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結集
saṃgīti、संगीति (S)
原語の意味は「ともに歌うこと」である。比丘たちが集まって釈迦の教えを誦出<じゅしゅつ>し、互いの記憶を確認しながら、合議の上で聖典を編集した聖典編纂会議のこと。 釈迦の滅後数百年間、その教えはもっぱら記憶暗唱を頼りとして受け継がれたから、その散逸を防ぎ、また教団の統一化をはかるためには、このような結集が幾度か必要とされた。
第1結集
伝承によると、ブッダの滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外に五百人の比丘たちが集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集)。このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ経(教法)と律(戒律)の編集主任を担当した。
釈尊は、個々人の迷いや苦しみに対して、それぞれ導いたのであり、「八万四千の法門あり、八万四千の煩悩あるがゆえに」などと言われるように、教えを、教科書のように定型化、体系化して説くことはほぼなかった。つまり、まとまりに欠けていることでもあり、個々人が勝手な解釈をして、本旨がゆがめられる可能性もある。
釈尊の教えが、失われたり、間違った内容で伝えられたりすることをおそれがある、ということが最初の目的であったと考えられている。なお、第一結集でまとめられた経典や戒律は、文字化されずに暗誦で伝えられたと考えられている。
- 迦葉五百羅漢と共に畢波羅窟に至り、先づ阿難をして毘尼蔵を結集せしめ、後に迦葉みずから摩得勒伽蔵を結集す。〔阿育王伝4〕
- 大迦葉五百の比丘と共に王舎城外の精舎に安居して、先づ優婆離をして毘尼蔵結集せしめ、次に阿難をして修妬路蔵と阿毘曇蔵とを結集せしむ。〔十誦律60〕
- 初め大迦葉五百の大比丘と王舎城に至り、優波離先づ毘尼蔵を結集す。次に阿難、修多羅蔵と阿毘曇蔵とを結集す。既に三蔵を結集せし後に長老富羅那五百の比丘を率いて来たり、迦葉更にこの比丘らに対して上の如く三蔵を結集す。〔四部律54〕
- 大迦葉三蔵を結蔵せんと欲して王舎城闍崛山の中に至り阿闍世王に告ぐ、我等に食を賜りて日日に送付せよ、今我等経蔵を結集せん為め他行を作さず三月此に安居せんと。初の十五日説戒の時に大衆を集め、迦葉禅定に入り天眼を以て之を観るに、一千人の中、独り阿難一人未だ余垢を尽して阿羅漢となり、直に入て千数に加はる。是に於て阿難をして先づ修妬路法蔵を結集せしめ、次に優波利をして毘尼蔵を結集せしめ、後に復た阿難をして阿毘曇蔵を結集せしむ。〔大智度論2〕
第2結集
仏滅100年頃,ヴァイシャーリー(Vaiśālī, 毘舎離)の比丘たちが戒律に関する十の問題(十事)を実行していたのを知った阿難の弟子ヤシャス(Yaśas, 耶舎)が,700人の比丘をヴァイシャーリ-に招集して、十事の審議を行なった。セイロンの王統史である『島史』と『大史』には、こののち、聖典の結集を行なったと記されるのでこれを第二結集と呼ぶ。
パーリ律蔵には、十事審議の記事のみがある。この会議において「十事」は「非事」として否定され十事実行者は異端とされた。これが根本二部派の分裂の原因になったという。
北伝系にも第二結集の記事がある。ただ『異部宗輪論』には、仏滅100年頃阿育王(アショーカ王)の治世下に、大天の五事の審議の後根本分裂がおこった、と記されている。
第3結集以後
第三結集(千人結集)は、仏滅200年頃、アシヨーカ王(Aśoka,阿育王)の治下に、マガダ国の首都パータリプトラ(Pāṭaliputra,華氏城)において、モッガリプッタ・ティッサ(Moggaliputta Tissa,目犍連帝須)が主となって、千人の比丘を招集して、三蔵の編集を行ない、『論事(Kathāvatthu)』を編集したとされるもので、南伝の律、『大史』、『島史』などに記される。北伝では第三結集を認めない。
第四結集とは、一般に『大毘婆沙論』編集の事を指す。仏滅400年に、カシュミール(Kaśmīra)にカニシカ王のもとで、パールシュヴァ(Pārśva、脇尊者)が主となって、500人の比丘を招集して、三蔵を結集した。 それが『大毘婆沙論』になったと、玄奘訳の「跋」に記されている。これらの結集伝説は、各部派の律蔵、『大唐西域記』、セイロンの『大史』『島史』などに、述べられている。
この第3回・第4回の結集については南伝・北伝の両仏教の伝承が一致していない。