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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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: 「仏の在世中は、その教えが間違って理解されることはなかった。仏がなくなられ涅槃にお入りになった後、最初に仏の教えが結集されたときも、まだ仏の在世中と同じであった。その後百年経ってアショーカ王が、〔二度目の仏典結集として〕五年に一度の大祭(般闍干瑟大会 pañcavārṣika)を開いたが、その時には多くの偉大な教師たちが論争しあい、意見が一致しなかった。それゆえに、さまざまな名称をもつ部派が成立したのである。これ以後各部派はさまざまに発展していった。バラモンであったカーチャーャナ(迦旋延)に至ると、彼は知恵にすぐれ才能豊かで、諸経典(三蔵)や他の種交の書物(内外経書)を読んでいたが、仏の教えを解説したいと考えて、『発智経八健度』(Jñānaprasthāna Aṣtagranthābhidharma T26, No.1543, 1544)を作ったのある。
 
: 「仏の在世中は、その教えが間違って理解されることはなかった。仏がなくなられ涅槃にお入りになった後、最初に仏の教えが結集されたときも、まだ仏の在世中と同じであった。その後百年経ってアショーカ王が、〔二度目の仏典結集として〕五年に一度の大祭(般闍干瑟大会 pañcavārṣika)を開いたが、その時には多くの偉大な教師たちが論争しあい、意見が一致しなかった。それゆえに、さまざまな名称をもつ部派が成立したのである。これ以後各部派はさまざまに発展していった。バラモンであったカーチャーャナ(迦旋延)に至ると、彼は知恵にすぐれ才能豊かで、諸経典(三蔵)や他の種交の書物(内外経書)を読んでいたが、仏の教えを解説したいと考えて、『発智経八健度』(Jñānaprasthāna Aṣtagranthābhidharma T26, No.1543, 1544)を作ったのある。
……(中略)またある人はいう。仏在世中、シャーリプトラ(舎利弗)は仏の教えを解説するために『アピダルマ』(阿毘曇)を作った。後に犢子部(vātsiputriya)などの修行者たちがこれを読誦し、その後今に至るまで『舎利弗阿毘曇』(Śāriptrābhidharma、T28 No,1548)と呼ばれている。またマハーカーチャーヤナ(摩訶迦旛延)は仏在世中に、仏の教えを解説して、『蜆勒』弓の冨冨中国の言葉でいえ
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: またある人はいう。仏在世中、シャーリプトラ(舎利弗)は仏の教えを解説するために『アピダルマ』(阿毘曇)を作った。後に犢子部(vātsiputriya)などの修行者たちがこれを読誦し、その後今に至るまで『舎利弗阿毘曇』(Śāriptrābhidharma、T28 No,1548)と呼ばれている。またマハーカーチャーヤナ(摩訶迦旛延)は仏在世中に、仏の教えを解説して、『<虫+昆>勒』(peṭaka 中国の言葉でいえば篋蔵、箱ぐらのこと)を作った。その後今に至るまで、この書は南インドにおいて広く受け入れられている。〔p.70a〕
ば霞蔵、箱ぐらのことである)を作った。その後今に至るまで、この書は南インドにおいて広く受け入れられ
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ている。〔p.70a〕
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2025年2月12日 (水) 10:06時点における版

<虫+昆>勒

peṭaka (S)
 『大智度論』に説かれている3種の経典解釈法の一つ。1に<虫+昆>勒、2に阿毘曇、3にによる解釈法である。

 「仏の在世中は、その教えが間違って理解されることはなかった。仏がなくなられ涅槃にお入りになった後、最初に仏の教えが結集されたときも、まだ仏の在世中と同じであった。その後百年経ってアショーカ王が、〔二度目の仏典結集として〕五年に一度の大祭(般闍干瑟大会 pañcavārṣika)を開いたが、その時には多くの偉大な教師たちが論争しあい、意見が一致しなかった。それゆえに、さまざまな名称をもつ部派が成立したのである。これ以後各部派はさまざまに発展していった。バラモンであったカーチャーャナ(迦旋延)に至ると、彼は知恵にすぐれ才能豊かで、諸経典(三蔵)や他の種交の書物(内外経書)を読んでいたが、仏の教えを解説したいと考えて、『発智経八健度』(Jñānaprasthāna Aṣtagranthābhidharma T26, No.1543, 1544)を作ったのある。
 またある人はいう。仏在世中、シャーリプトラ(舎利弗)は仏の教えを解説するために『アピダルマ』(阿毘曇)を作った。後に犢子部(vātsiputriya)などの修行者たちがこれを読誦し、その後今に至るまで『舎利弗阿毘曇』(Śāriptrābhidharma、T28 No,1548)と呼ばれている。またマハーカーチャーヤナ(摩訶迦旛延)は仏在世中に、仏の教えを解説して、『<虫+昆>勒』(peṭaka 中国の言葉でいえば篋蔵、箱ぐらのこと)を作った。その後今に至るまで、この書は南インドにおいて広く受け入れられている。〔p.70a〕