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生を超越することを意味する。一般的には、永遠というものを不死永生という形で考えるが、仏教では、これを生に対する執着とみなし、そこで、まず生に対する執着を断ち、生を超越することを説いた。そこで、一般では「不死」というが、仏教では「不生」という。 | 生を超越することを意味する。一般的には、永遠というものを不死永生という形で考えるが、仏教では、これを生に対する執着とみなし、そこで、まず生に対する執着を断ち、生を超越することを説いた。そこで、一般では「不死」というが、仏教では「不生」という。 | ||
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なお、江戸前期の[[ばんけい|盤珪]]永琢は、「不生の仏心」「一切事は、不生でととのふ」〔盤珪禅師御示聞書(19)〕といい、不生で万事が尽されるとし、ひいては、「不滅といふも、むだ事」「不生といふて、不滅とは申さぬ」(同前)と説いて、一般の不滅(不死)の考えかたに批判を加えた。これによって、のちに盤珪禅が不生禅と呼ばれた。 | なお、江戸前期の[[ばんけい|盤珪]]永琢は、「不生の仏心」「一切事は、不生でととのふ」〔盤珪禅師御示聞書(19)〕といい、不生で万事が尽されるとし、ひいては、「不滅といふも、むだ事」「不生といふて、不滅とは申さぬ」(同前)と説いて、一般の不滅(不死)の考えかたに批判を加えた。これによって、のちに盤珪禅が不生禅と呼ばれた。 |
2008年11月22日 (土) 21:32時点における版
不生
ajaati, ajaata, anutpaada (skt.)
生を超越することを意味する。一般的には、永遠というものを不死永生という形で考えるが、仏教では、これを生に対する執着とみなし、そこで、まず生に対する執着を断ち、生を超越することを説いた。そこで、一般では「不死」というが、仏教では「不生」という。
初期の経典では、仏について「生の滅尽」〔法句経(423), スッタニパータ(517)〕と表現している。生に対する執着を断ちきって超越したことを意味している。
なお、江戸前期の盤珪永琢は、「不生の仏心」「一切事は、不生でととのふ」〔盤珪禅師御示聞書(19)〕といい、不生で万事が尽されるとし、ひいては、「不滅といふも、むだ事」「不生といふて、不滅とは申さぬ」(同前)と説いて、一般の不滅(不死)の考えかたに批判を加えた。これによって、のちに盤珪禅が不生禅と呼ばれた。
普照
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