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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(智顗)
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==智顗==
 
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(chinese) Zhì-yǐ。[[538年]] 荊州・華容に生-[[597年]]11月24日 浙江・天台山に没。
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(chinese) Zhì-yǐ。538年 荊州・華容に生-597年11月24日 浙江・天台山に没。
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 中国、天台宗の開祖。'''天台大師'''、'''智者大師'''ともいう。陳末から隋初にかけて唯一の学匠といわれ、慧文(えもん)・[[えし|慧思]]の相承から第三祖、天台教学の大成者。<br>
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 陳朝につながる名門の家に生まれたが、幼くして父母を失い、さらに15歳のとき候景の乱にあい、18歳で出家、20歳で具足戒を受け、560年(天嘉元)光州の大蘇山で慧思に学ぶ。568年(光大2)以後7年間、金陵(南京)の瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義した。<br>
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 575年(太建7)以後天台山にこもり天台教学を確立した。陳帝やその後継者に信任が厚く、勅により10年後には再び金陵に出て、光宅寺で『法華文句』を講義した。陳末の兵乱を廬山に避け、591年(開皇11)晋王楊広(のちの煬帝)の懇請により王に菩薩戒を授け、王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。<br>
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 法華三昧・三諦(さんだい)三観・一念三千・五時八教など独自の思想は、中国仏教形成の第一人者といわれる。初めて放生池(ほうじよういけ)を設けたことも名高い。<br>
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 597年晋王の再三の招きで揚州に赴く途次、石城寺で病を得、11月24日入滅。<br>
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 なお、現在の仏教学の常識では五時八教の経相判釈は資料に基づき完全に否定されている。<br>
  
中国、天台宗の開祖。'''天台大師'''、'''智者大師'''ともいう。陳末から隋初にかけて唯一の学匠といわれ、慧文(えもん)・[[えし|慧思]]の相承から第三祖、天台教学の大成者。<br>
 
陳朝につながる名門の家に生まれたが、幼くして父母を失い、さらに
 
15歳のとき候景の乱にあい、18歳で出家、20歳で具足戒を受け、[[560年]](天嘉1)光州の大蘇山で慧思に学ぶ。[[568年]](光大2)以後7年間、金陵(南京)の瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義した。<br>
 
[[575年]](太建7)以後天台山にこもり天台教学を確立した。陳帝やその後継者に信任が厚く、勅により10年後には再び金陵に出て、光宅寺で『法華文句』を講義した。陳末の兵乱を廬山に避け、[[591年]](開皇11)晋王楊広(のちの煬帝)の懇請により王に菩薩戒を授け、王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。<br>
 
法華三昧・三諦(さんだい)三観・一念三千・五時八教など独自の思想は、中国仏教形成の第一人者といわれる。初めて放生池(ほうじよういけ)を設けたことも名高い。<br>
 
[[597年]]晋王の再三の招きで揚州に赴く途次、石城寺で病を得、11月24日入滅。
 
<br>なお、現在の仏教学の常識では五時八教の経相判釈は資料に基づき完全に否定されている。<br>
 
 
===著作===
 
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* [[ほっけげんぎ|法華玄義]]
 
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* 天台小止観 観法の撰述、懺法
 
* 天台小止観 観法の撰述、懺法
  
(多くは弟子、章安大師潅頂([[561年]]-[[632年]])の筆録)
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(多くは弟子、章安大師潅頂(561-632年)の筆録)

2017年4月14日 (金) 08:50時点における最新版

智顗

(chinese) Zhì-yǐ。538年 荊州・華容に生-597年11月24日 浙江・天台山に没。

 中国、天台宗の開祖。天台大師智者大師ともいう。陳末から隋初にかけて唯一の学匠といわれ、慧文(えもん)・慧思の相承から第三祖、天台教学の大成者。
 陳朝につながる名門の家に生まれたが、幼くして父母を失い、さらに15歳のとき候景の乱にあい、18歳で出家、20歳で具足戒を受け、560年(天嘉元)光州の大蘇山で慧思に学ぶ。568年(光大2)以後7年間、金陵(南京)の瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義した。
 575年(太建7)以後天台山にこもり天台教学を確立した。陳帝やその後継者に信任が厚く、勅により10年後には再び金陵に出て、光宅寺で『法華文句』を講義した。陳末の兵乱を廬山に避け、591年(開皇11)晋王楊広(のちの煬帝)の懇請により王に菩薩戒を授け、王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。
 法華三昧・三諦(さんだい)三観・一念三千・五時八教など独自の思想は、中国仏教形成の第一人者といわれる。初めて放生池(ほうじよういけ)を設けたことも名高い。
 597年晋王の再三の招きで揚州に赴く途次、石城寺で病を得、11月24日入滅。
 なお、現在の仏教学の常識では五時八教の経相判釈は資料に基づき完全に否定されている。

著作

  • 観音玄義
  • 観音義疏
  • 金光明玄義
  • 金光明文句
  • 観無量寿経疏   以上、天台五小部(五重玄義の解釈法を用いたもの)
  • 次第禅門
  • 六妙法門
  • 天台小止観 観法の撰述、懺法

(多くは弟子、章安大師潅頂(561-632年)の筆録)