「じねんげどう」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
(新しいページ: '=自然外道= svabhaava-vaada あらゆる存在(一切法,一切万物)は因縁によらないで自然に有る、とする説で、万物を創造...') |
(→自然外道) |
||
1行目: | 1行目: | ||
=自然外道= | =自然外道= | ||
− | + | <big>svabhāva-vāda</big> (S) | |
あらゆる存在(一切法,一切万物)は[[いんねん|因縁]]によらないで自然に有る、とする説で、万物を創造したという主宰神のような造作する者とか、人間の意志の自由というような観念をすべて否定する。三十種外道の一つといわれる。 | あらゆる存在(一切法,一切万物)は[[いんねん|因縁]]によらないで自然に有る、とする説で、万物を創造したという主宰神のような造作する者とか、人間の意志の自由というような観念をすべて否定する。三十種外道の一つといわれる。 | ||
6行目: | 6行目: | ||
==自然の思想== | ==自然の思想== | ||
[[じねん|自然]]という思想は、 | [[じねん|自然]]という思想は、 | ||
− | + | 例えば、蓮華の花が生じてその色が鮮やかなのも、誰かが色を染めたというのでもない。自然に鮮やかなのである。また、棘(とげ)の先端が鋭く尖っているのも、誰かが先端を削りとって尖らせているのでもなく、すべて自然にそうなっているのだから、万物の生成は無因に生じたものである 〔大日経疏(2)〕 | |
という。このような考えは、六師外道の1人マッカリ・ゴーサーラの | という。このような考えは、六師外道の1人マッカリ・ゴーサーラの | ||
− | + | 人間の苦・楽の果報は行いによらず自然に定まっている 〔注維摩詰経(3)〕 | |
とみる説、或いは、同じ六師外道の1人アジタ・ケーサカンバラの | とみる説、或いは、同じ六師外道の1人アジタ・ケーサカンバラの | ||
− | + | 一切法は自然にして存在し、因縁に従わず 〔維摩経義記(2本)〕 | |
とする説と比べられる。 | とする説と比べられる。 |
2017年6月26日 (月) 10:41時点における版
自然外道
svabhāva-vāda (S)
あらゆる存在(一切法,一切万物)は因縁によらないで自然に有る、とする説で、万物を創造したという主宰神のような造作する者とか、人間の意志の自由というような観念をすべて否定する。三十種外道の一つといわれる。
自然の思想
自然という思想は、
例えば、蓮華の花が生じてその色が鮮やかなのも、誰かが色を染めたというのでもない。自然に鮮やかなのである。また、棘(とげ)の先端が鋭く尖っているのも、誰かが先端を削りとって尖らせているのでもなく、すべて自然にそうなっているのだから、万物の生成は無因に生じたものである 〔大日経疏(2)〕
という。このような考えは、六師外道の1人マッカリ・ゴーサーラの
人間の苦・楽の果報は行いによらず自然に定まっている 〔注維摩詰経(3)〕
とみる説、或いは、同じ六師外道の1人アジタ・ケーサカンバラの
一切法は自然にして存在し、因縁に従わず 〔維摩経義記(2本)〕
とする説と比べられる。