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にょらい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2006年11月11日 (土) 15:10時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (如来)

如来

(skt.)tathaagata तथागत。「多陀阿伽陀」と音写。

真身如来

「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。

如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。  (成実論 1 )
如実より来る。故に如来と名づく。‥‥涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。  (転法輪論)
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。  (智度論 24)

応身如来

真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来。

如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。
答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。  (勝鬘宝窟上末)

諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。  (教行信証証巻 聖典註釈版 p.307)

如去

サンスクリット語で「suugata」(修伽陀)を「如去(にょこ)」あるいは「好去(こうこ)」と漢訳する。これは如実に生死を去るという意味。これによって、如来と如去は相対して、如去は向上自利であり、如来は向下利他である。この二つの言葉で仏の無住処涅槃を顕す。