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しょうがく

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

正覺

abhisam-dudh (S)
さとり」のことをいい、「等正覚」「正等覚」ともいう。

 これは「完全に知る」ことである。仏としての「さとり」であるところから、「無上正遍知」「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、anuttarā-samyak-saṃbodhi)」ともいう。
 涅槃煩悩の火の吹き消された状態として、寂静であるのに比べて、これは一切の真実を知り尽くした状態として「智慧の完成者」をいう。したがって、涅槃や解脱が、「さとり」の消極的否定的な面での表現、すなわち超越の側を示すとすれば、正覚は「さとり」を積極的肯定的にあらわす現実的内在的表現であるとも言えるであろう。

 以上の意味で、正覚は仏の「さとり」の具体的内容たるべきものであり、涅槃は「さとれるもの」のであるといえる。したがって、正覚とよばれる智慧は、一切の真実相を知りつくした智慧であると同時に、一切を知り、一切を知らしめるべく活動する智慧でもある。
 この意味で、正覚は後得智(ごとくち)であり、教化智であり、説法智である。すなわち、相手を知り、相手に応じて化をほどこす智慧である。

他宗教と仏教の違い

 このように如来の実智が正覚と呼ばれ、正覚を成ずることが成仏であるということは、仏教の教えの特色をあらわしている。
 つまり、仏教は決して盲目的な信仰を基盤としていないということである。西洋的合理性とは異なってはいるが、仏教は非合理的ではなく、合理的であるといってよい。智慧によって納得のいかないものは、徹底的に排除する。
 この点、仏教の信心といっても、それが仏道を完成する基盤となるものである限り、盲目的に、ただわけも分からず信ずるということではない。「信心がすなわち智慧である」とさえいわれるのも、このためである。
 そこで、もし仏教をも宗教という名で呼ぶならば、この仏教の根本的性格を十分注意したうえで使うべきであろう。宗教において必然的に使われる「信心」は、仏教と他の宗教とでは、明らかに性格を異にするものである。