ほんがん
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
本願
pūrva-praṇidhāna (S)
仏や菩薩が過去において立てた誓願。「宿願」とも言う。菩薩としての修行中に立てたもので、たとえば阿弥陀仏ならば法蔵菩薩としての修行中に立てられたものを言う。
- 適当な場所に住み、前世に功徳を積んでいて、自らは正しい誓願を起こしていること(attasammāpaṇ)、これがこよなき幸せである。 〔Suttanipāta, 260〕
- 人ありて少福徳を修し、少戒福を修するも、禅法を知らざれば、人中に富楽人ありて、心に常に念著し、願い楽いて命終の後、富楽の人中に生ず。また、人ありて少福徳を修し、少戒福を修するも、禅法を知らざれぱ、四天王処.三十三天・夜魔天・兜卒陀天・化楽天・他化自在天に生ず。心常に願い楽いて命終の後、各々其の中に生ず。 〔大智度論7、T25-108b〕
『大智度論』が有部の人々の大乗解釈であるという考えを考慮するならば、種々の問題がある。例えば、このような少施福や少戒福による生天への願いを誓願(paṇidhi)といってきたのであるから、このような誓願はtaṇhāに外ならないと、これを否定し、無願三昧(appaṇihito samādhi)こそが誓願とよばれるものであるという考えが現れ、ついに空・無相・無願の三三昧が主張されるようになったと思われる。
原意
原語の「プラニダーナ」とは、「あるものに心を寄せる」「切望する」「祈る」などを意味する動詞「praṇidhā (S)」からでた名詞。
原始経典では「天国に生れることを希願する」というように用いられる。仏教の場合は、絶対者などに対して祈るのではなく、自己への祈りであり、願いである。その意味で、「真実の祈誓」(saccakiriyā)であり、真実の実行を意味する。いわば、悟りを開き仏陀たらんとする願いとその実行をいう。
菩薩の誓願
「仏や菩薩が過去において一切の生あるものを救おうとして立てた誓願」の意味が、「pūrva-praṇidhāna」といわれる言葉の意味で、これが本願である。
この「本」に2つの意味がある。
- 本とは因の意味。因位(仏になる前)に願を立て、それが果として成就したから、本願(もとの願)という。
- 本とは根本の意味。悟りを完成する根本になる誓願の意味。
原語の pūrva は「前の」ということであるから、初めの意味に近い。
しかし、仏となるためには必ず願を起し、その願いの完成したことで仏と言い得るから、仏の根本は願にある。その点で「願」が成仏の根本だから、第二義が近い。仏のことをヴィパーカ・カーヤ(vipāka-kāya)と呼び、報身とするのはこの理由による。
総願
仏はすべて同じ誓願を持つ。これを総願(sāmānya-praṇidhāna (S))といい、具体的には四弘誓願(しぐぜいがん)を指す。
- 衆生無辺誓願度 一切の衆生を度脱せしめん
- 煩悩無尽誓願断 一切の煩悩を悉く断じつくさん
- 法門無量誓願学 一切の教法を必ず学習しつくさん
- 仏道無上誓願成 無上の仏道を成就せん
別願
諸仏それぞれの願を別願(viśesa-praṇidhāna (S))と言う。この別願によって、それぞれの仏の特徴が特徴づけられている。
とりわけ、薬師如来の十二願、阿弥陀如来の四十八願などが有名である。薬師如来の十二願は「一切衆生の苦悩を除き、一切の病患を除かん」というものであり、阿弥陀如来の四十八願は、法蔵菩薩の時に立てて成就したものであり「念仏の衆生を救いとげん」との誓願である。
発起人としての本願
日本においてかなり古くから本願には、塔をつくり、寺を建て法会を執行することを指ている。東大寺の本願とか、善光寺本願などが、これである。