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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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凄く単純なまとめ

 釈尊がこのよに居られなくなった時、おそらくは直弟子が居る間は彼らに訊くことができた。だからそれほど問題は起きなかっただろう。
 ところが、そのような人間が居なくなった時、頼るのは暗記していた典であり、修行方法を詳しく説いていたであっただろう。しかし、この段階に来たらOKという判定をする人が居ない。これは大きな問題となっただろう。

これがおそらくは「授記」という形になったのだと思われる。さらには、「見仏」につながったとみて良い。

 さて、教えは誰が‥‥という問題に突き当たり、確かに経典には書いてあるが、そこには「この世は作られたものであり、作られたものである限り、主体<我, ātman>はない」と言うことを教えられている。その主体は何によって作られているかというと、それは縁起によって、つまり関係性によって作り上げられている、という一種の法則を見出すのである。
 そこで、この関係性というはたらき()が、この世のすべての基盤にあるということを見出した学僧たちは、それを思惟することとなる。
 しかし、それでは考えようがない。そこで、そのはたらきの主体を仮に定めることによって、考えを進めようとする。それが法身であると言える。つまり、法身は教えそのものであり、関係性そのものである。もっといえば、この世を作り上げているはたらき(用)を指している。
 はたらきそのものであるから、体はない。この考えは、さらに宇宙全体を形作っている体に、毘盧遮那仏・大日如来という名を付ける方が考えやすい。つまり、自分のさまざまな状況が生じている用(はたらき)に、仮に主体を設定して、さまざまな名をつけて、驚くほどたくさんの仏・如来が登場することになったと考えて良い。
 仮に置いた主体であるが、人間の煩悩は安易な方向に動くものであるから、主体と言うものが「存在する」と錯覚する。それが、事実と混同され、仏の存在を認めることとなったのである。
 さらに、人間は自らの状況を、自らの思いのままになるべきだとする煩悩を持っていることに気付かないので、仏がゐますなら、この苦悩(それが煩悩から生じた迷いであることに気付かず)を解決するはずである、と確信(もちろん、妄信とも迷信とも言える)するのである。それを解決するために現われたのが釈尊であったと応身を設定するのであり、さらには、多くの大乗仏を登場させたのである。それが薬師如来であったり、阿弥陀如来であったりする。しかし、その仏・如来は動いて我々を助けてはくれなさそうだ、として手先となって我々を直接助けてくれる菩薩を続いて想定する。これは、ジャータカなどに書かれた、釈尊の前生が様々に動いて、様々な有情を助けたことからの発想だと言える。

 このように、三身説は大乗の多くの仏・菩薩を産み出してきた。 マイコン坊主 (トーク) 2017年4月13日 (木) 05:16 (JST)