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じとうみょう・ほうとうみょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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自灯明・法灯明

 『大般涅槃経』(Parinibbhāna)の第2章の26に、次のように釈尊は遺言している。

26 それ故に、この世で自らを島(attadīpa)とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?
 アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貧欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における食欲と憂いとを除くべきである。
 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における食欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における食欲と憂いとを除くべきである。
 アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地(uttama-bhāva)にあるであろう、――誰でも学ぼうと望む人々は(ye keci sikkhā-kāmā)――。」〔中村元訳、『ブッダ最後の旅』pp.63-64〕