せっしゅ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
摂取
parigraha (S)
- 「しょうじゅ」と読むこともあるが、意味合いが異なる。
梵語「パリグラハ」は「把握すること」「保持すること」「所有すること」「何某の保護の下におくこと」などの意味である。摂取は「摂護」「摂持」と熟字される場合もある。
従来、摂取について「選択して摂めること」を意味するともいわれるが、文字そのものに「選択」の意味があるように思えない。
浄土教関係では「選択摂取」〈せんじゃくせっしゅ〉と熟語されるから、選択と摂取との意味の区別について、いろいろと説明されてきた。種々の説明の大部分は両者を同意とみるが、選択の方に取捨の義、摂取の方には、ただ取の義のみと解釈する場合もある。
しかし、選択といって「えらびとる」意味であるといっても、救いの相手を選びとって、他を捨てるというのではない。いっさいの人々を救う方法をえらびとり、それによって人々を摂めとり、救いとることをいうのである。すなわち、仏の慈悲が光明の中に苦悩の衆生を「おさめとる」ことである。とくに「摂取不捨」と熟語される場合は、阿弥陀仏の光明の功徳を示すので、「摂取光益」〈せっしゅのこうやく〉ともいわれて、念仏の衆生をおさめたすけたもう阿弥陀仏の光明の利益をあらわすのである。
いま、このことを『観無量寿経』には
- 八万四千の光明あり、一々の光明あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず
と説いている。天台宗の開祖、智者大師智顗〈538-597〉は、この経典の心を「念仏衆生摂取不捨とは、もし仏の慈悲のために護られるならば、ついに苦を離るることをえて、永く安楽をうる」といっている。なお、また善導大師は、この光明摂取について三縁を示し、光益は念仏の行者のみの受けとるものであるとして、次のごとく説くのである。
- 一に親縁〈しんえん〉を明さば、衆生、行を起こして口に常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞き、身に常に仏を礼敬すれば、すなわちこれを見、心に常に仏を念ずれば、仏すなわち、これを知り、衆生、仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念す。彼此の三業、相捨離せず、故に親縁と名くるなり。二に近縁〈ごんえん〉をあかさば、衆生、仏を見んと願えば、仏、即ち念に応じて現に目前にあり、故に近縁と名く。三に増上縁をあかさば、衆生、称念すれば即ち多劫の罪を除く、命終らんとする時、仏と聖衆と自ら来りて迎接し、諸邪業繋〈しょじゃごっけ〉、能くさうるなし、故に増上縁と名く
このように、摂取については後世では、ほとんど浄土教において説かれ、阿弥陀仏の救いをあらわす点は注意すべきである。しかも、摂取不捨を弥陀の光明の利益として説かれる点は仏教本來の智慧の立場を明らかに示すものとして注意すべきである。